再び会えるのはいつ?
2020年06月28日付 Prothom Alo紙
(マシュルル・イナンは、滑稽な歌を歌ってビデオを制作し、最近人気が高まっている。フェイスブックやユーチューブでは、「キトバイ」という名前で知られている。(バングラデシュ軍が運営する)バングラデシュユニバーシティー・オブ・プロフェッショナルズ(BUP)の3年生であるこの学生は、大学のキャンパスでももしかすると「キトバイ」と呼ばれていたかもしれない。しかし、その機会はどこにあるのだろうか。学校は閉鎖されてしまっている。多くの学生と同様にキトバイも、大学での馴染んだ環境を懐かしんでいる。)
私はいつも元気で活発な人間だ。話、おしゃべり、歌、キャンパス、友達、新しいイベントの計画、授業の忙しさ-それにダカでのあわただしい生活、交通渋滞にはまって身動きならないこと…全てがないまぜになってシンプルで美しく普通の生活が続いていた。そして私はそんな状況の中で気楽に生きていた。いつものように笑顔で幸せな気持ちで!
賑やかな忙しさと多彩な出来事−それらすべてが忌まわしいコロナの流行のせいで一瞬にして止まってしまった。もうさんざん語りつくされた話で、誰だって知っているようなことだ。一般の教育機関が閉鎖されて4ヶ月ほどになる。休みの間は家に監禁状態だ。何も問題がなければ、今頃私たちの大学では雨季のお祭り(ボルシャ・ウトショブ)開催の計画が進んでいたことだろう。サークルの仲間たちや友人たちと皆で忙しい時間を過ごしていただろう。
でも今は状況がすっかり変わってしまった。通りに出て空を見てリラックスして、散歩することはできない。またはグラウンドで遊ぶ機会もない。どこに行ってもコロナという名のおぞましいウイルスの脅威が口を開けて待ち構えているからだ。だからたいていソーシャルメディアやインターネットやヴァーチャルの世界を歩き回っていて、仲の良い人たちとそこでいつも顔を合わせている。また、オンライン授業のおかげでクラスメイトと毎日会っている。だがこれで終わり!それだけのことなのだ!
この八方塞がりでネガティブなニュースが蔓延する状況でも、私は精神的に壊れないように、前向きな態度をもって日々戦っている。再び全てが平常になり、再び仲の良い友人の隣に座って茶店でお茶ができるだろうと希望を持ち続けている。以前は息が詰まるほどの仕事の忙しさや、勉強のプレッシャーで押し潰されそうになり、いつ休息が取れるのかと思ったりしたものだが、今から考えると黄金の鹿のようなものだった。しかし、今は慣れない長期間にわたる封鎖状態を受け入れるのに苦労している。過去となった日々の美しい日常の一瞬一瞬は心のセルロイドに映し出すしかない。大好きな人たちは側にいない。ヴァーチャル世界での出会いに心を捕らわれても、それは乳の代わりに乳清でごまかすようなものだ(ものたりない)。
これまではたいてい大学のキャンパスでおしゃべりに興じ、歌で盛り上がった。ほとんどの情報交換は大学のキャンパスでおしゃべりや歌によって行われている。まだ学生生活も終わらないのに、この奇妙な思い出は何なのだろう!さらに健康で生きることさえ大変な課題だ。この限定的なロックダウンからいつ普段通りの生活に戻れるのか、まだ何もわからない。私はいつでも前向きでいたい。だからこそ私は皆と同じように、ゆっくりと「ニューノーマル」と呼ばれるこの新しい章に慣れていこうとしている。しかし
仲の良い友人やクラスメイトたちと触れ合えない寂しさは、自粛生活の中で本当に埋め合わせることができないものなのだ。
メディアで「コロナワクチン開発と発表!」だの「コロナの予防薬製造に必死の努力」といった報道を日々目にするたびに、再び今まで通りの生活に戻ることができるのではないか、友人たちと楽しく騒ぎあえるのでは、という興味津々の気持ちで記事を追う。
本当の意味で、「普段通りの生活」の味わいは格別のものだ。いつ仲の良い友人たちと会うことができるのか分からない。しかし私はその日がそう遠くないことを信じるし、そのことを神に祈るばかりだ。この黒い雲は、きっとまもなく去っていくだろう。またボイシャク月(4月半ば~5月半ば)の、雨季の、ファルグン月(2月半ば~3月半ば)のフェスティバルを仲間たちと盛り上がれることができるだろう。できるだろうか?私はできることを願っている。なぜなら私はこう聞いたからだ—「希望に生き、信じている者は決して死ぬことはない!」と。
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(翻訳者:小野田莉子)
(記事ID:897)