ウキア・ロヒンギャキャンプ~ バシャンチョルへ渡ったロヒンギャ家族の安堵~
2020年12月04日付 Prothom Alo紙
カマル・ホセインは2017年10月、攻撃や虐殺に直面し、11人の家族と共にミャンマーのブチドン・ジムカリ村を離れることを余儀なくされた。山や森、嵐、雨を越えてバングラデシュにたどり着き、ウキアのロヒンギャ難民キャンプに避難することができた。金曜日(2020年12月4日)、カマル・フセインの息子と娘の二つの家族は、政府の手配で他の人たちと共にベンガル湾のバシャンチョル島に到着した。カマル・ホセインは携帯電話で子どもたちの声を聞き、安堵した。バシャンチョルは住む場所も道も整っており、訪れた人は皆喜んでいる。
カマル・ホセインはプロトム・アロ紙につぎのように語った。「私はロヒンギャキャンプ内の家で嵐や雨、強い日差し、冬の寒さに苦しんでいます。眠ることもできません」。バシャンチョルの家を見た子どもたちは父親に、ここには安心して眠るための用意が整っていると伝えた。今後より多くの人がバシャンチョルに行くことに興味を持つだろうとカマル・ホセインは考えている。
ロヒンギャたちの第1陣は金曜日昼過ぎ、ノアカリ県バシャンチョルに到着し、午後2時15分ごろ上陸した。男女子どもを合わせ合計1,642人のロヒンギャの一団だ。昨日木曜日の朝から午後にかけて厳戒態勢のもと、ロヒンギャの人たちは39台のバスに分乗してウキア・カレッジのグラウンドからチッタゴンのポテンガBAFシャヒーン・カレッジのグラウンドとボートクラブ、そして周辺地域のトランジットキャンプに到着した。そこからさらに海軍の船6隻と陸軍の船1隻でバシャンチョルに向かった。バシャンチョルに到着した人々は、携帯電話でコックスバザールのキャンプに残っている親族と話をした。
記者は今日の朝から正午にかけて、コックスバジャル県ウキアのクトゥパラン地区にあるロヒンギャのキャンプを回り、バシャンチョルに移動したロヒンギャの人たちの家族から話を聞いた。インタビューの条件は匿名で、ということだった。ロヒンギャの管理を担当するキャンプの一部組織やロヒンギャのテロリストを恐れて身元を明らかにすることを望んでいないのである。68歳のロヒンギャの女性は、息子を含む家族4人がバシャンチョルに行ったと語った。女性自身は娘とクトゥパランキャンプに残った。危機にさらされていた時にバングラデシュで避難する場所を得たと考えており、だからこの国は彼らを危険にさらすことはないだろうと信じて息子をバシャンチョルに送りだしたという。
クトゥパラン・ロヒンギャ難民キャンプの7人のロヒンギャ指導者に話を聞いた。7人とも、自分たちが知るかぎり、誰もバシャンチョルに行くよう強制されなかったと口をそろえた。多くの人々は、設備の整った住宅、電気、学校、きれいな水、通信設備、農場、舗装道路、整備された衛生環境、堤防、サイクロンシェルター、エンターテイメント施設、病院、生活費を稼ぐ手段など、生活する上での様々な利点を聞いてバシャンチョルに行ったという。ロヒンギャたちの間では、バシャンチョルに行くことについての反応はさまざまだ。しかし最初の一団が行ったことにより、数日もすればバシャンチョルの良し悪しに関する色々な情報がもたらされると予想される。最初のグループが良い評価をすれば、バシャンチョル行きの行列ができるかもしれない。
テクナフ県にあるレダ・ロヒンギャキャンプのリーダーのひとりは昨年9月、ロヒンギャ代表団と共にバシャンチョルを訪れた。リーダーはプロトム・アロ紙に、バシャンチョルではインフラを始めとして、すべてが高品質だったと語った。以前はいくつかの間違った情報のためにロヒンギャたちはバシャンチョルに行きたがらなかった。特にミャンマーの故郷の近くに住みたい、また2~3ヶ月以内に帰国できるだろうと考えている人が多く、その場合、(ミャンマーに近い)ウキアは都合の良い場所ということになる。
国連は一部のロヒンギャたちをバシャンチョルに送り出すプロセスに疑問を呈している。また複数の国際人権団体は移送の停止を求めている。 しかし、バングラデシュのA Kアブドゥル・モメン外相はメディアに対し、ロヒンギャは強制的にバシャンチョルに連れて行かれているわけではなく、政府の呼びかけに応じた人だけが移住して行っていると語った。
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(翻訳者:仲村優人)
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