ライター・ブロガーのオビジット・ラエさん刺殺される

2015年03月11日付 Prothom Alo 紙
科学的な思考のライター、ブロガーとして知られるオビジット・ラエさんが、暴漢たちによって刺殺された。事件が起きたのは昨日木曜日(2月26日)夜で、ラエさんは1952年のベンガル語国語化運動を記念して毎年2月に開かれているブックフェアから帰宅する途中、ダカ大学地区で被害にあった。ブックフェア警備のために治安部隊が配備されている中でこの事件は起こった。
およそ10年前の2004年2月27日には、作家のフマユン・アジャドさんが同様にブックフェアから帰る途中でテロリストの手で殺害されている。そして昨日2月26日にオビジット・ラエさんが攻撃の標的となった。また2013年の2月15日には首都ダカのミルプル地区でブロガーのアハメド・ラジブ・ハエダルさんが同様の手口で命を奪われる事件が起きている。
オビジットさんが犯人たちに襲われたとき一緒にいた妻のラフィダ・アハメドさんも攻撃され重傷を負い、ダカ医科大学付属病院で治療を受けている。収容先の病院でラフィダさんはプロトム・アロ紙の取材に応じ、「夜8時半ごろブックフェアの会場を出て、ダカ大学のTSC(教員学生会館)側のソラワルディ公園の入り口近くに出ていた路上の茶店でお茶を注文し、出来上がるのを待っていたところ、8時45分ごろ、青年と言う年頃の暴漢が二人、突然刃物で夫を背後から切りつけた。夫をかばおうとしたところ、犯人たちは私を襲ってきた」と述べた。
犯人たちが逃走した後、付近にいたカメラマンたちが血まみれの夫妻を病院に運び込んだ。治療を担当したソヘル・アハメド医師はプロトム・アロ紙に、ラエさん(42)は頭部からの大量出血のため10時半ごろに死亡したと語った。ラフィダさん(35)は頭を4ヶ所切りつけられて負傷し、また左手の親指切断の重傷を負っている。
ラエ夫妻はアメリカ在住。オビジットさんは「ムクト・モナ(自由な心)」というブログの編集長、ライターをつとめていた。ムクト・モナは「悪習と原理主義に対抗」したとして、2007年にジャハナラ・イマム賞を受賞している。オビジットさんの父はダカ大学物理学科の元教授で教育者として知られるオジョエ・ラエさん。またラフィダさんはボンナ・アハメドの筆名で執筆活動をしている。オビジットさんには「光を掲げる暗闇の旅人」「宇宙の生命と叡知を探して」「自由な思考:のびやかな発想と知性の解放」「信仰のウィルス」などの著作がある。
ダカ医科大学付属病院でプロトム・アロ紙の取材に応じたオビジットさんの弟のオヌジット・ラエさんは、「兄はバングラデシュ工科大学(BUET)を卒業し、しばらく同大学で教職に就いた後、8年前にアメリカに行ってある企業でソフトウェア技術者として勤務していた。ラフィダさんとは2008年に結婚した、今年は2月16日に夫人とともにバングラデシュを訪れ、3月には渡米する予定だった」と語った。オヌジットさんやオビジットさんの友人たちによると、今回の一時帰国後、オビジットさんは2月17日から毎日ブックフェアに出向いていたという。犯人たちはその機会を利用して計画的反抗におよんだのではないかとオヌジットさんたちは考えている。
記者が事件のあった現場に到着したのは夜9時45分頃だった。そこには1台のオートバイが倒れていて、物見高い群衆が現場を取り巻いていた。路上には血の跡が残っていた。その後警察がやって来て、規制線を張った。事件当時現場に居合わせたという女性は「二人の人がソラワルディ公園の入り口からここまで走ってきた。その後ろにはさらに2~3人いた。そしてここ(現場)に来てみると男性と女性が倒れていた」と語った。
ダカ大学の卒業生だという別の目撃者は「女性が一人泣き叫んでいるまわりを人が取り囲んでいた。警察の幹部もそこに来ていた。現場から少し離れたソラワルディ公園の入り口近くには警察の車両が停まっていた」と話した。また、現場近くでフチュカ(スナック菓子)を売っていたアブル・カシェムさんは記者の取材に「犯人の一人はTSC構内のラジュ記念碑の方角へ、もう一人はミロン広場の方に走って逃げていくのを見た」と答えた。事件発生の後、警察の刑事係と犯罪捜査班が現場に到着し、証拠物件の捜査をおこなった。シャハバグ署のシラズル・イスラム署長代行はプロトム・アロ紙の取材に対し、「現場で血が付着したナイフ2本と肩掛けバッグ1個が見つかった。ナイフの取っ手部分には紙が巻き付けてあった。襲撃の目的はまだ分かっていない」と語った。


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翻訳者:小林加奈
記事ID:388