オビジットさん殺害事件~責任は私たち自身に~
2015年03月11日付 Prothom Alo 紙
オビジット・ラエさんが原理主義者たちの標的となっていることは公然の事実だった。フェースブックにはラエさんと妻の名をあげて殺害予告が行われていた。電話盗聴が日常業務となった政府がもし、この事実を知らなかったというなら、失策を自ら認めるようなものだろう。またそれを知りながら襲撃を防止するための策を講じなかったとしたら、政府はさらに大きな過失を犯したことになる。国民ひとりひとりの安全確保は他の誰でもなく、政府の責任だからだ。
どのように見ようと、バングラデシュ政府がその責任を果たせなかったことは明白だ。そして落ち度はわれわれ自身にもある。オビジットさんを刺殺した犯人たちは犯行声明を出している。その声明はまるで彼らが何か誇るに足りうることをしたかのような調子だ。その者たちの中には学生もおり、われわれの友人も隣人たちもいる。そんなことはない、と言うかもしれない。だが彼らが私たちの同胞であることは間違いないのだ。
それにしても人を殺害したことを誇るとは、われわれの兄弟であり友人であり息子であるその連中は、いったいどういう人間たちなのだろう。 彼らが誇り高く育む価値観はいったいどんなものなのだろう。理解不能に思えるが、実はわれわれはそれと知りながら、そんな価値観を認めてきたのかも知れないし、その醸成に手を貸してきたのかも知れないのだ。
オビジットさんの犯した唯一の罪は、宗教について違う立場を取ったということだ。ひとりの科学者として、ただ信仰心だけでなく、論理によって宗教の方針や規則を検証しようとしていたのだ。一般とは違った意見をオビジットさんは文章に著し、異なる意見の持ち主たちに対して論争を挑んだのだ。だが決して誰かの命を奪うことはしなかった。殺人予告をすることもなかった。他方、自らの信仰に多大な誇りを抱く者たちは、オビジットさんとの議論に臨むことなく、自分たちが一番得意とする手段に訴えたのだ。彼らはこそ泥のようにオビジットさんを背後から襲い、こそ泥のように逃走したのだ。それは野蛮であるばかりではない。卑怯者の仕業だ。
怒りのあまり、こんなバングラデシュは自分の国ではない、と言い張るひともいる。私にもその気持ちは良く分かる。だが私はまるきり反対のことを言う。これこそがわれわれのバングラデシュなのだ。私たちはそうと知りながら現在のこの状況を作ったのだ。私たちは異論を受け入れること、共存することができない。政治にせよ歴史の問題にせよ、あるいは宗教の問題にしても、自分自身が育ってきた世界以外はどんな意見も、あまつさえ情報でさえ認める習慣を私たちは持ち合わせていない。これまでにわかったことが事実なら、今回の殺人犯たちはそれなりに学校教育を受けており、なかには現役の学生までいるという。自分の狭隘な世界で、あるいはそれよりは多少広いだけの社会の中で、自分に馴染みの真実を唱えることしか知らないのだ。そうすることを彼らに教えたのは祖国の政治家であり、知識人であり、年長者であったのだ。
すべてのことで井の中の蛙でありながら、こと宗教に関してだけは寛大などということはありえない。この心の狭さは1日にして出来上がったものではないように、1日にして改まるものでもない。しかしもし私たちが変えたいと望むならー本当にそうなのか、ということに関しては100パーセントそうだと言いきることができかねるのだがーどこかでそのための努力を始めなければならない。そしてその努力は、まず沈黙を破ることから始められるのではないだろうか。なぜなら、黙ったままでいることは、不正を認め、妥協するのと同じだからだ。すべての人に賛同してはもらえないだろうが、今も自由な知識を学ぶことが正しいと信じている人たちがもし、今回の事件の犯人たちを非難し、抗議する言葉をはっきりと口にするならば、それはオビジットさんに捧げる、何よりも素晴らしい哀悼の花束となるだろう。だから憶さず自らをごまかさず声を揃えて言おう、今日からは皆がオビジットなのだと。
プロトム・アロ ニューヨーク特派員 ハサン・フェルドウス
原文をPDFファイルで見る
翻訳者:伊藤巧作
記事ID:389