波紋を呼んだ「アルメニア会議」とうとう開催(Milliyet紙)
2005年09月26日付 Milliyet 紙
行政裁判所の中止決定のために、一日遅れで始まったビルギ大学でのアルメニア会議では、フラント・ディンクが語った記憶に、講演者も聴衆らも涙した。
行政裁判所の中止決定のために一日遅れで始まった「オスマン帝国末期におけるオスマン朝のアルメニア人:科学的責任と民主主義の問題に関する会議」(於・ビルギ大学)は抗議や議論や興味深い発表で幕を閉じた。会議でフラント・ディンクが語ったスィヴァスで亡くなったあるアルメニア人女性についての記憶は、たくさんの人の涙を誘った。一方で、イルハン・チュハダルオール教授の事実のねつ造と一方的な責任転嫁は人々を苛立たせた。
会議によってアルメニアのタブーが取り払われたと主張するバスクン・オラン教授は次のように述べた。
「トルコには多くのタブーが存在してきた。しかし階級概念、アタテュルク批判、キプロス、社会主義、共産主義、クルディスタンはすでにタブーではなくなった。唯一残っているタブーは、アルメニア問題だ。それもすでにタブーではなくなったのである。1915―16年事件発生時にはまだ幼少で、しかし無罪とはいえない35-40人の外交官の殺害に刑が科されなかったことは、アルメニア問題がタブーであることの証左である。
■ オスマン朝が調査していた
内務大臣のメラル・アク何とかという人が(メラル・アクシェネルのことを示している)、オジャランに対する行動を「アルメニアの新世代」と言ったとき、「このような言い方は女性にふさわしくない」と反対した人はいなかった。オスマン朝の末期にこのことを語るのはタブーではなかった。それどころか、国外追放の責任を明らかにしようと努めていた。シャンルウルファ、ガズィアンテプ、カフラマンマラシュをまずイギリス人が占領した。9ヶ月間、唯一つの弾丸も撃たれなかった。イギリス人が領土をフランスへ放棄したところ、抵抗が始まったのである。なぜなら、フランス軍にはアルメニア人が多数含まれていた。心理的な抵抗だったのである」。
アルメニアの国外避難民が「ジェノサイドだ、損害賠償と土地を」と要求してトルコの知識人の努力を暗礁に乗り上げさせてきたと述べるオランは、「ディアスポラは3つのT(認識tanıma、 損害補償tazminat、土地 toprak)を提案しているが、このことで「認識すること」を妨げているのである。アルファベットさえ放棄した帝国がしたことのために損害を償うことをトルコの人々が考えられようはずもない。土地の要求など全くもってばかげている」と述べた。
■ 強制移住は適切な表現だ
会議の「記憶と証人」という題のセッションで話したガラタサライ大学の教員アフメト・クヤシュ博士も統一と進歩委員会の4人、ハリル・メンテシェ、ミトハト・シュクリュ・ブレダ、メフメト・ジャヴィド・ベイ、ヒュセイン・ジャーヒト・ヤルチュンの回顧を詳しく調べ1915年事件を分析した。強制移住決定に関しこの4人は関知していなかったとするクヤシュ博士は、「この回顧を読めば、事件につけられた「強制移住」という名称が適切な表現であり、かなり大規模な虐殺があったことを認めないわけにははいかない」と語った。
ラディカル紙コラムニストのギュンドゥズ・バサッフ氏はSaatli Maarif Takvimi(時計仕掛けの教育新聞)に注目し解説した。
バサッフ氏は同紙を365日毎日調べアルメニア人に関わる記事を集めたという。「Saatli Maarif Takvimiで我々トルコ人はアルメニア人を敵としてとらえている。同紙で「強制移住」とは一言も書かれていないことは教訓的でさえある。アルメニア人は過去を知らない子孫たちにこのように知られているわけだ。Saatli Maarifには今後異なる表記を求む。」
■ 我々にも間違いがある
共和人民党の元保健省大臣で欧州議会評議員のジェヴデト・アイカン氏は、会議に参加している知人が「その会議に何の用がある? 発言には注意しろよ」と警告してきたと説明した。
■ 恐怖に別れを
会議の第2セッションで話したアイハン・アクタル氏は、「世界で、国歌が「恐れるな」から始まる唯一つの国はトルコだ。我々を我々たらしめた恐怖を勇気をもって超えていくこと、もう大人になったのだとまず自分たちを納得させることが必要だ」と語った。
「アルメニアの状況」というセッションでアゴス紙の総責任者ディンク氏が説明したスィヴァスで生まれフランスへ移住したあるアルメニア人の女性の話に、パネリストも聴衆も涙した。ディンク氏は、2、3年前スィヴァスからあるトルコ人の老人が電話してきて、村で一人のアルメニア人女性がなくったので彼女の近親者を見つけたいとった話を次のように続けた。
■ 「水はひび割れを見つけた」
10分で近親者を見つけて、行って説明しました。女の子は私に、母親がフランスで生活していたこと、時々トルコへ来るとイスタンブルへは全く寄らずに生まれた村へ行っていたと話しました。女の子は、スィヴァスへ遺体を引き取りに行き、私に電話してきた。彼女に、「どうする?遺体をここへ運んでくるかい?」と聞くと私に「ここにいるおじさんが…」といって泣き始めました。
私はおじさんに電話を代わってもらい、「なぜ彼女を悲しませるのですか」と聞きました。おじさんは、私に「私は何も言っていない。ただ、お前も分かるだろう、お母さんをここに残しなさい、水はひび割れを見つけたのだと言っただけ。」と答えられ私は落ち込みました。そうです、アルメニア人はこの土地をみつめています。しかし、心配しないでください。この土地を取っていくためではなく、この地の底に入っていくためなのですから。
ディンク氏が涙を流しながらやっとのことで語った話に聴衆らは長い間、立ち上がって拍手を送った。聴衆やパネリストの中には涙を止められない人もいた。ディンク氏は、動物は別の場所に連れてこられると金のお盆の上でさえ生きることはできないと言って、次のように話した。「あなたたちは、命とつながっている根っこを切り離したということです。強制移住とはまさにこのことなのです。この名称が何を意味することになるかは法曹界の人たちに考えていただきましょう。これは、もう内面化されています。遺伝子のコードにまで影響を与えたようなものです。
このような会議がトルコでなされることは非常に重要です。トルコを後にしたばかりの時点、つまり1915年の時点のままで考え、「トルコは変わらない、これを受け入れない、不公正なことだ」という国外避難民がいる。しかしこの会議は、彼らをいい意味で驚かせることになるでしょう」。
■ 会議は終った
会議は準備委員会メンバーのハリル・ベルクタイ氏のスピーチで終った。ベルクタイ氏は、エルドアン首相、ギュル外相、ボアヂチ大学、サバンジュ大学、ビルギ大学と報道陣に感謝を述べた。
現地の新聞はこちらから
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:澤村 )
( 記事ID:942 )