セーブル条約の民族自決権に言及する北イラク“クルディスタン憲法”に反発の声(Milliyet紙)
2005年11月26日付 Milliyet 紙
北イラクのクルド人が、トルコが祖国解放戦争で破棄したセーブル条約を持ち出すことに激しい反発が起こった。アクタンは「自決権はローザンヌ条約によって執行された。」と述べた。
列強によるアナトリア分割を明記しながら、アタテュルクのリーダーシップによる祖国解放戦争によって歴史に葬られたセーブル条約が、本紙がスクープしたイラク連邦クルディスタン地区議会作成の「クルディスタン地域憲法草案」に盛り込まれた。セーブル条約への言及に対し反発が示された。
■効力は消えた
元大使ギュンドュズ・アクタンは「セーブル条約は、いかなる効力も残さずに祖国解放戦争とともに消滅した。自決権は、トルコの国境の内側にいる者が誰であれ(トルコ人とクルド人)、解放戦争、トルコ大国民議会、ローザンヌ条約によって行使された。この権利は歴史上一度のみ有効であり、短期間に二度行使することはできない。イラクには連邦があって、各連邦には憲法がある。しかしこのような(地域)憲法はあってはならない。イラク憲法で自決権を行使し、その後にもう一つ憲法を作って再度自決権を行使するとする。これは分離の意思を希望を明らかにすることを意味する。受け入れられることではない。」
■「危険をはらむ分裂」
トルコ大国民議会外交委員会委員長メフメト・ドュルゲルは「セーブル条約は、当時の超大国イギリスの圧力で作られた。現在イラクではアメリカのコントロール下で似たような状況が現実にある。私たちがどんなにじたばたしようとそこで行われることに干渉はできないのだ。イラクで7世紀以来スンナ派が統治してきたが、今初めて分裂が起ころうとしている。クルド人が一つの国を持つと言っているのだ。これは実現するだろうか?そこにある原油の利用権はクルド人に残されるのか?残されるならば、クルド人はこれを利用できるだろうか?結果はそのときになってみないと分からない。しかし、目下の問題は(スンナ派、シーア派、クルド人の)三者の危険をはらむ分裂だ。多くの幻想も話題にされている。どうなるか見てみよう。」
■クルド人は何と言っていたか?
クルド人議会での投票の後国民投票にかけられる草案の導入部で、セーブル条約に関する次のような説明がなされた。
「祖国民であるクルディスタンで長い間生活してた古き民であるクルド人は、世界の他の民族や国民のように、自決の(自身の運命を明確にする)権利を行使できる性質を持つ。自決権は、第一次世界大戦後に発表され、国際法の基本概念となったウッドロウ・ウィルソンの14か条で提唱された権利である。1920年に調印されたセーブル条約の第62~64条がクルド人の自決権を定義しているにもかかわらず、国際的な利益と政治バランスからクルド人がこの権利を手にして実行に移すことはできなかった。
セーブル条約の民族自決条項とは逆に、南クルディスタンは1925年に自国民の意志を無視して、その4年前、つまり1921年に建国されたイラクに割譲された。セーブル条約はクルド人が自らの土地を統治するためにクルド人官僚の登用と、教育、法律や他のあらゆる行政サービスの言語がクルド語であることを条件づけた。この時以来クルディスタンのこの部分はイラク・クルディスタンとして知られている。」
■参照された条項
1920年にオスマン朝によって調印されたセーブル条約のうち、憲法草案で参照された「クルディスタン」という題目の第62~64条ではクルド人の独立がどのように実現されるべきかが記されている。、
ギュンドゥズ・アクタンによれば、この時にはまだ国境が確定していなかった大アルメニアのトラブゾンにまで伸びた南部国境の外側がトルコに属する「クルド自治区」として記述されているという。これによると、マルディン、ウルファ、アンテプを国境に組み入れたシリアと、トルコの当時確定していなかったイラク国境の外側に残ることになった北イラクのクルド人に、この自治区のクルド人と合同する権利を認めた。
条約は、この合同の実現の1年後に「クルド人が国会に独立申請を行うことは、申請が受け入れられた場合にはオスマン帝国はこれを実行しなくてはならない」という判決に結び付けられた。
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( 翻訳者:藤巻 晋也 )
( 記事ID:1387 )