ギュル外相、サバタイ派(ユダヤ教徒改宗者)だとの「疑惑」を一蹴(Milliyet紙)
2005年06月07日付 Milliyet 紙
ヤルチュン・キュチュク教授に対し、「ギュルと夫人はサバタイ派の可能性がある」との主張に反論する書簡をしたためたアブドゥッラー・ギュル外相は、「主張は全て偽りだ。もっと真剣に取り組まれることを期待していた」と述べた。
ギュルは、『共和国2(Tekeliyet-2)』という本の中で、ギュル外相とハイルニサ夫人がサバタイ派であり得ると主張するキュチュクに書簡を送った。
この主張を否定するギュルは、キュチュクに対し政治状況を歴史に正確に記録するよう求めた。
キュチュクは、著書の272ページに、2002年11月28日、29日付のミッリイェト紙から取った二枚の写真を載せた。トルコ大国民議会議長ビュレント・アルンチ夫人ムネッベル・アルンチ(旧姓タイ)の1978年当時の頭部を覆っていない様子が、「これが大学時代のムネッベルさんだ」とコメントされ、二枚目の写真には、ハイルニサ・ギュル外相夫人(旧姓オズユルト)が1980年に頭部を覆わずにいる姿が写っている。
本の中の「タイとオズユルト」という章には、次のような記述がある。「二枚の写真とも、9月12日クーデターの直前を示している。写真を撮った翌日に頭を覆ったとは考えがたいことから、二人が頭を覆ったのは、エヴレン大将とエルシン大将が率いたクーデターの後だろうと思われる。(中略)つまり(1980年)9月のクーデター後の体制が落ち着き始め、発展への道が開かれているところだった。タイとオズユルトはこうした新進キャリア組から夫を見つけ出し、頭を覆ったのだ」。
キュチュク教授は、ハイルニサ夫人がサバタイ派であり得るという主張についても次のような見解を示した。「ニサという名前についた接頭接尾語は重要ではない。ハイルも容易に説明され得る接頭語だ。ハイルニサでもおかしいとは思わない」。
「ここで重要なのはニサという名前である。舞台俳優ニサ・セレズリで有名な名前だ。ヘブライ語にも存在し、つぼみを意味する。今日では高校の女子生徒たちがターバンをかぶっている。ニサ・オズも9月クーデター以前にはターバンをかぶっていなかった」。
■サバタイ派の可能性がある
アルンチとギュルがサバタイ派かもしれないという主張が展開されている同書283ページでは、次の様に述べられている。「…ギュルは、ニサと結婚した人物である。(中略)息子にメフメト・エムレという名前がふさわしいと考えたギュルがカイセリ出身者である可能性は高い。エジェヴィトの主治医として知られるT・ジレリ教授、それから一時はエジェヴィトの最も忠実な部下の一人であったが、後に裏切り、処罰されたH・オズカンもカイセリ出身者であり、サバタイ派であると言える」。
5月5日にキュチュクに書簡を送ったギュルは、こうした記述に対し次の様に反論した。「共和国(Tekeliyet)というあなた方の著書において、私個人と妻についての主張を含む章を読み、大変遺憾に思った。そのことについての主張は全て偽りだ。
■協力できた
あなたが一人の学者として、こうした非常にデリケートな問題に対しもっと真剣に取り組まれることを期待していた。さらに私は、あなたからのあらゆる質問に答えることが出来た。研究に必要な情報収集の点で、出来る限りの協力をすることもできたのだ」。
■正確な記述を
ギュルは、手紙にこう続けた。「あなたの著書中のこうした事実無根の主張が、今日に与える深刻さもさることながら、未来の世代に知らされるという点においても、誤った見解の構築につながるということはご理解いただけると思う。私は、今日の政治状況を歴史に正しく記録する義務を負うあなた方が、世間で重要な位置にある個人の人格にかんしてより神経質に、正確な根拠に基づいた行動をする必要を強調し、のちの研究であなたがこのことに配慮されることを望んでいる。ご成功をお祈りする」。
■サバタイ派とは何か?
オスマン帝国期、イズミルでユダヤ教のラビの地位にあったサバタイ・ツヴィが、1665年に自らを救世主メシアであると宣言した。ユダヤ教宗教学者たちはサバタイを背信者とした。(スルタンメフメト4世に)裁判にかけられたサバタイは、死刑を免れるためイスラム教徒に改宗することを選んだ。これは、見せかけのイスラム教信仰であった。イズミルとセラニッキで数を増した宗教コミュニティは、長い間外見上はイスラム教徒でありながら内面ではサバタイを信仰する生活を続けた。宗教コミュニティは、共和国期の閉鎖的な体制の中で徐々に衰えていった。
現地の新聞はこちらから
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:倉本さをり )
( 記事ID:151 )