あるトルコ人とヴェネツィア芸術祭(Radikal紙)
2005年06月11日付 Radikal 紙

ヒュセイン・チャーラヤン(訳者註:邦文のファッション業界では「フセイン・チャラヤン」との表記が一般的、1970年キプロスのニコシア/レフコーシャ生まれ。15歳からロンドン在住。)がヴェネツィア芸術祭でトルコを代表した出展作『存在するもの、しないもの』は、アイデンティティ、地理学、人類学にまつわる実験的ビデオ作品である。チャーラヤンは「このフィルムはここ数年間の集大成」と語る。

ミュジデ・ヤズヂュ(ヴェネツィア発)

ヒュセイン・チャーラヤンがヴェネツィアで絶賛された。第51回ヴェネツィア芸術祭のトルコ館に出展されるビデオのメディア関係者向け試写会の際には、些か問題を抱えて電話のやり取りに忙殺されたチャーラヤンだが、正式開幕に際しては「問題のない(きれいさっぱりした)」版に仕立て上げた。それに留まらず、国民的職務を成し遂げたのだ。キュルシャド・トゥズメン国務大臣と、ビデオに出演したイギリス人女優ティルダ・スウィントンが顔を合わせた。レセプションの席上、トゥズメンはスウィントンに「あなたは、もはやトルコ人同然です」と述べ、彼女に「トルコ産(Mede in Turkey)」と明記された干しブドウを無理やり食べさせてしまった。とりわけ海外メディアの関心を集める開幕には、現代アート界におけるいまひとりのキプロス系著名人であるトレイシー・エミン(訳者註:主にイギリスで活躍するアーティスト。1963年生まれ。ロンドンのテート・ギャラリーなどに彼女の作品が収蔵されている。)も姿を見せた。

ヴェネツィアの大運河のほとりに立つレヴィー財団ビルで、上映作品『存在するもの、しないもの』について、ヒュセイン・チャーラヤンにインタヴューした。

ミュジデ(以下Mと略記):トルコを、まさにあなたが代表することになりますが、これをどのように捉えていますか?
ヒュセイン(以下Hと略記):はっきり言うと、私自身は、真っ先にトルコ館を代表するような人間であるとは思ってないんです。そんなこと思ってもみませんでしたから、オファーが来たときは嬉しかったですね。

M:オファーは、どなたから?
H:べラル(マドラ)ハヌムから、そして、文化相(エルカン・ムムヂュ元大臣)とシューレ・ソイサル(外務省担当官)からです。ベラル・ハヌムが私を推薦してくれて、後の両人が認めてくれました。「ガレリスト」オーナーのムラト・ピレヴネリも奔走してくれました。というのも、プロジェクトのオーガナイザーは彼らでしたから。ギャランティ・バンクとは以前仕事上のお付き合いがあって、彼らがこのプロジェクトを推進しスポンサーになってくれました。テュルクォリティ社は私の別件のスポンサーで、話を持っていったら、快諾してこのプロジェクトについてもスポンサーになってくれました。経緯はこんな感じです。
でも息の長い骨の折れる日々でした。まあ、同時にとてもワクワクするような日々でしたが。私にとってとても新鮮な試みで、初めてこのような作品を制作しました。私には3本映像作品がありますが、今回の作品とは内容的に別物ですね。

M:『存在するもの、しないもの』は、非常に実験的な作品でありながら、物語性にも富んだ作品ですね。着想はどんなところから?
H:地理学、人類学、アイデンティティといったことに関心があるんです。このフィルムはここ数年の集大成ですね。ここでこんな仕事ができるなんて、私にとってこの上ないことです。というのも、トルコ館で仕事をするというのはとても困難なことですから。私はデザインをする際、すべてを「動きのあるもの」として捉えています。ファッション・デザインの際も同様です。私は、人生の一コマを切りとって、物語を紡ぎ出していて、それらの物語ひとつひとつがコレクションを形作っていくのです。きっと私はいい語り部ですよ。そもそも、おとぎ話を語っているのです、もっとも、現代版に焼き直しながら、ですけどね。
仮に私にヴィジョンがあっても、チームワークも極めて大切なものです。今回のようなプロジェクトは、「一丸」となれるか否かにかかっていますから。着想はすべて、この種の問題への何年にもわたる関心によっています。これ以外の私の作品をご覧いただければ、何らかの関連性があることをご理解いただけるでしょう。社会政治的観点に立つ作品だったり、文化的先入観、あるいは「認識されないもの」を扱った作品だったり。時には、似通ったテーマを違ったアプローチで作品化することもありますよ。

M:フィルムはオリエンタリズムの臭いがしません。これは意図したものですか?あるいは、作品をして語らしめよ、ということですか?
H:おっしゃるように、この作品はオリエンタリズム的観点とは異なっています。但し、特に意図したわけではありません。私は、このオリエンタリズムの臭いがしない雰囲気を作品の素材として使いたくはないのです。何故って、それは一種の泥人形、自分だけで捏ね上げちゃった泥人形でしょう。というのも、私個人に対しては明らかな見方がありますよね。私にまつわることが考慮されるのです。キプロス出身のトルコ人であるというアイデンティティとともに日々を送るにせよ、決して私自身はそのことを声高に伝えて回ったりしていません。私はトルコ人ですが、私の作品が、全てトルコ人らしいものだ、と言っている訳でも、トルコという国に反旗を翻しているものだ、と言っている訳でもありません。何故なら、トルコは問題山積みなのです。議論されるべき問題は多いのです。でも、トルコでは未だに幾つかのテーマについては、言葉少なく窮屈に語ることしかできません。コメントが無い訳ではないですが、「ある観点を作り出す」というのはとても興味深いものに思えます。だって、コメントという形になった途端、その時点であなたはある考え方を代表しているわけで、同時にそれ以外のこととは相対峙している訳でしょう。私はそんな代表者になる必要はないと思います。思うに、あなたは、いろいろな深刻な問題に触れることなく、極めて感情的に語れるようですね。

M:あなたは一方で、モード・デザイナーでもありますね。ある取材では、「モード界の人たちは、世の中の問題について頭を悩ますものではない。」とおっしゃったそうですが、あなたにとって「思想を生み出そうとする欲求は、アートを通じて満たされている」と言えるのでしょうか。
H:ええ。私にとって今回のプロジェクトは世界を理解するための助けになっていますよ。

M:あなたの中で両者(思想とアート)は互いに支えあうものだと?
H:まさしくそうです。互いに同時進行です。これらは一種の結果論ですが、モードの仕事もこれらに影響されますね。『存在するもの、しないもの』プロジェクトをコレクションに生かせましたし。というのも、以前、似たような自分の仕事をコレクションに翻案したことがあったものですから。DNAに関するものでした。私にとっては、両者はひとつながりで共通したヴィジョンの一部なのです。

M:イスタンブル芸術祭に参加され、今はヴェネツィアにいらっしゃるわけですが、イスタンブル芸術祭は世界のアートにおいてどのように位置づけられるのでしょうか?
H:芸術祭とは、私にとって都市と密接に繋がったものです。アーティストがその都市において如何なる位置を占めることになるか、が重要です。思うに、芸術祭は都市と密接に繋がっているべきなのです。というのも、大半の人々にとっては、観光業にまつわるものですから。ある意味では一種の観光業ですよ。アート・ツーリズム。イスタンブルにしても同じことです。芸術祭にやってきた人々は、イスタンブルも見て歩くわけでしょう。ヴェネツィア芸術祭ならヴェネツィアを、ね。これは、非常に社会的で、文化的なイベントでしょうね。街を眺めながら、たくさんのアート作品を目にするわけです。このような一大イベントに足を運ぶことができるのなら、それだけでとっても素晴らしいことです。予定がいっぱいでイスタンブルへは無理ですが、他の芸術祭を全て見るというわけにも行きませんねぇ。単なるアート・イベントであるだけでなく、都市の環境がくれたあなたへの贈り物なのです。そして一種グローバルな体験なのです。イスタンブルにとって間違いなく重要なイベントですよ。


■スウィントン:誇りに思う

ヒュセイン・チャーラヤンのビデオには、『オルランド』『サ・ガーデン』『ザ・ビーチ』『コンスタンティン』といった映画でおなじみのイギリス人女優ティルダ・スウィントンが出演している。スウィントンは、『存在するもの、しないもの』で、遺伝学を研究する学者を演じている。劇中のスウィントンは、3名の被験者の服から組織サンプルを採取してそのDNAを観察している。そして、様々な社会的先入観をコンピューターにインストールしては、それを使ってこの被験者のアイデンティティを明らかにしようとしている。
スウィントンにヒュセイン・チャーラヤンとの接点を聞いてみた:
「以前からヒュセインと面識があったわけではないの。だけど、彼のやっている仕事のせいで、何年も前から名前は耳にしていたのよ。ちょっとだけ知ってはいたけど、今回のプロジェクトのお蔭で知り合うことになったわ。そのときはインドネシアにいて、メールで出演のオファーがあったの。もちろんオーケー。何といっても、彼と一緒に仕事をするなんて誇りに思うわ。本当に、誇りに思うのは彼が稀代のアーティストだからよ。モード界の人でもあるわ。彼のデザインも、私のお気に入り。でもフィルムはまだ観てないの。ヴェネツィアも初めてで、ワクワクするわね。ヒュセイン・チャーラヤンはとっても興味深いアーティスト。彼から返事が帰ってきても、その内容のほとんどが彼からの質問ってことは結構あるのよ。『存在するもの、しないもの』撮影中には、科学に関した質問をしていて、そうね、このフィルムもヒュセインみたいに謎だらけね。出来上がったものは、間違いなく素晴らしいものだわ。」


■いまやヴェネツィアはアートのメッカ

世界的に眺めてみれば、100年以上の歴史をもつヴェネツィア芸術祭が世界で最も重要なアート・イベントである理由も納得できる。アートを愛するものなら誰しも、その生涯に一度は目にしておきたい場所だ。ビエンナーレ・ガーデン(ジャルディーニ地区)には各国のパビリオンとマリア・デ・コラルがキュレーターを務めた『アートの経験』(原題:The Experience of Art)と題された展示がある。また、ヴェネツィア芸術祭の各国パビリオンがそれぞれの外務省からの支援を受けていることを考えてみれば、ここがある種の「体現の場」になっているともいえるだろう。毎年、イギリス、アメリカ、イスラエル各国のパビリオンの前は長蛇の列だと聞いて会場を訪れてみる。すると、今年はイスラエル館の前には行列はできていなかった。イギリス館とアメリカ館の入場待ちの列に並ぶのは預言者の如き忍耐が求められるのだが、われわれは順番待ちの行列が習慣付いた国民ではない。イギリス館でギルバート&ジョージのコンピューター処理された写真を目にして、われわれは息をのんだ。また、海外メディアの関心も極めて高い。他にもフランス館の前に行列ができていた。アネット・メサジェの巨大な作品を見ることができる。そして、行列こそ無いものの高い関心を集めたのはカナダ館…同館で上映されるレベッカ・ベルモアのビデオはとても興味深い。
芸術祭をすべて回ろうと思えば一日では無理だ。時間もままならず、われわれはアルセナーレ地区にあるローサ・マルティネスの『いつだってちょっと遠い』(原題:Always a Little Further)と題された展示のことを思った。アルセナーレへ向かう道中、そこかしこにアート作品があった。これらのいくつかは、イタリア館がないことに抗議するイタリア人若手アーティストたちの反抗的展示なのだ。アルセナーレに着くと、そこで「タンポン」で製作されたシャンデリアを目にすることとなる。きっと読者諸兄も目のやり場に困ることだろう。マルティネスの展示にはトルコ出身のセミハ・ベルクソイとビュレント・シャンガルの作品も含まれている。トルコ館はアルセナーレとビエンナーレ・ガーデンから徒歩15分のところにある。但し、ゴンドラ・タクシーで行くなら、55ユーロは覚悟されたし。


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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:226 )