イギリス公文書にみるアルメニア問題(Milliyet紙)
2005年05月03日付 Milliyet 紙
イギリス政府の公文書をまとめた‘イギリス公文書’には、第一次世界大戦中オスマン帝国領土内に居住していた民衆の間で起こった争いが‘列強の政策の結果’起こったものであり、こうした進展によりオスマン帝国領土内すべての民衆が苦難を経験したと記されている。
一部のアルメニア人組織やアルメニアは、当時の事態の進展や国際状況を軽視し、アルメニア人だけが1915年に問題に直面したかのように見せているが、イギリスの公文書は当時の出来事をより包括的な視点から評価している。
イギリス公文書館所蔵の文書を閲覧できるインターネットサイトwww.nationalarchives.gov.ukにある「難民とマイノリティ」というタイトルの章では、ヨーロッパのすべての難民問題に関するイギリス公文書の分類情報が掲載されている。この章の総括では次のように述べられている。「ヨーロッパで20世紀に発生した難民は、オスマン帝国が崩壊していくなかで、帝国が長きにわたり支配してきた土地に民族主義が芽生えていったことで始まる。民族主義の高揚は、第一次バルカン戦争へと道を開いた。第二次バルカン戦争、第一次世界大戦と、徐々に激化していく争いの中にいた民衆は、列強間の力関係のバランスが崩れると犠牲となった。」
さらに総括では「難民の発生は第二次バルカン戦争中のヨーロッパの特徴であった」と述べられており、「何百何千という人が、国境が人工的に引き直されていくなかで強制的に移住させられた。」と指摘している。
この章の総括で、オスマン帝国末期の人口移動がこの公文書を分類するイギリスの歴史家にどのように解釈されているかを見てとることができる。この総括では、当時アルメニア人だけでなく、多くの民衆が苦難を経験したと言う見解が示され、また「列強と同盟国の関係が変わり行く中で、オスマン帝国領土内にいた民衆が難民予備軍や犠牲となっていった。」という表現が使われており、注目に値する。
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( 翻訳者:倉本さをり )
( 記事ID:28 )