政治犯罪であるか否かは世論が決めること:モスタファー・モイーン
2005年05月24日付 Sharq 紙


5月24日シャルグ紙4面(選挙面)

政治犯罪であるか否かは世論が決めること

【モスタファー・モイーン】私見では、政治犯というのは社会的な事柄を改革しよう立ち上がり、そのような目的意識の下で、法律や社会の規則に反する行為をしてしまう人のことを指す。重要な点は、当の本人の意図そのものは正しいのではないか、ということである。それが罪であるかどうかの判断は世論に委ねられるべきである。なぜなら国家に奉仕しようとしているのか、個人的な信念のためなのかが、ここで問題となるからだ。

まさにこの故をもって、憲法では、政治犯罪であるかどうかの審理に、世論や社会の良心の代表として、陪審員が参加することが義務づけられている。法に違反したが誰にも害を及ぼさなかった、そういう人物の意図が善であるとの結論に達した場合、陪審は通常、公平でバランスのとれた票決を出すものである。このようなシステムがあれば、意見を述べたり、自らの立場を示したり、記事を書いたり、社会の中の諸々の事象、個人あるいは団体の行為等を批判しただけで、人々が投獄されることなどないはずである。

残念なことに、〔イランの法制度は〕憲法にそった形で機能しておらず、またそれ以上に重要なことに、国の責任者たちの多くもその重要性を認識してこなかったために、政治の領域に口を挟んだ、あるいは一部の慣習に反した発言をしたというだけで拘留されている人々を、現在目にするのである。彼らの裁判ではいずれも、公開であること、陪審員が参加すること、といった裁判所での基本的な権利が遵守されてこなかった。

しかし、本来ならば誰よりも先に、国の責任者たちこそ国内外でのこのデリケートな状況について憂慮し、人権侵害といった非難によって、国際社会にイランの名が知られる、というようなことがないよう努力するべきである。実際、彼らは諸外国からの圧力や人権侵害といった非難をかけられる前に、イスラームの慈愛の精神は人間に対する人権侵害を許してはいないと、まず考えるべきではないだろうか。よもやイスラームが慈愛の宗教ではないとでも考えているのだろうか?そしてなぜわれわれはイスラーム国家の陰で圧制や暴力、慈愛の欠如などを目撃しなければならないのだろうか。

■人権擁護

  したがって、将来の政府では、政治犯罪を定義し、憲法の本質—それは憲法を人権的な観点から理解する際に不可欠である—を再生させるべく、努力することが必要である。独房に収監された囚人、特に政治的活動が原因でそうなった人々が存在しない時代がくることを希望している。「私がここに来たのは、私は国民を信頼し、世論を支えにすることによって、希望と信頼を再び若者、国を動かすエリート、そして社会の間に蘇らせるためである」。今回の選挙の結果は、イランの将来を左右する可能性がある。民主主義の発展、改革の継続と深化、すべてのイラン人の為の自由と公正、そして国の恒久的な安全へと向かうのか、それとも政治的孤立という名の桃源郷、国際社会からの不信、専制的権力、そして非民主主義的な脆い秩序へと向かうのか。私がここにいるのは、非力ながら、前者の道へと進むべく尽力するためである。

Tweet
シェア


現地の新聞はこちらから

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:中西悠喜 )
( 記事ID:14 )