スィンジャンでアタテュルク像への見苦しい襲撃(Hurriyet紙)
2005年07月09日付 Hurriyet 紙

福祉党−正道党政権時代のスキャンダル「エルサレムの夜」とそれに伴って、メインストリートを戦車が蹂躙し「バランス調整」として話題となったスィンジャンのラーレ広場で、アタテュルク像がペンキがかけられるという襲撃に見舞われた。

スィンジャン市長エルタン・ユクセルは襲撃を「挑発的でスィンジャンのイメージを悪くする事件」とした。CHPのスィンジャン支部長ケマル・バシュティムールもラーレ広場に姿を見せ襲撃に対して抗議した。過去にも悪いイメージを持たれているスィンジャンで、再びこのような事件が起きたことに悲しみを表したバシュティムールは、襲撃の真の目的は市のイメージを悪くすることにあると述べた。DSP(民主左派党)党首のゼキ・セゼルも襲撃を非難しながら、AKP政権に対し、「共和国の敵に勇気を与えないよう」警告した。銅像のあるラーレ広場に集まった市民グループもこの事件を非難した。



********************本記事への解説********************
■スィンジャン事件
福祉党のネジメッティン・エルバカン政権下の1997年2月3日、アンカラ郊外のスィンジャン市でイスラエルのエルサレム占領に抗議する集会が市当局によって開催された。スィンジャンの当時の市長も福祉党の出身であり、集会はシャリーア(イスラーム法)の復活やスカーフの着用許可を求めるなど次第に過激化していった。最終的に軍が市の中心通りに戦車を出動させるという威嚇行動を取って事態は沈静化したが、軍はこれを「民主主義へのバランス調整」と正当化した。この事件を受け同月末の軍の国家安全評議会定例会では、あからさまな形で共和国の国是を否定し始めたエルバカン政権に警告が出された。(2月28日過程)しかしその後も改善が見られなかったため、翌年1998年の1月に福祉党には解散命令が下され、エルバカンは政治活動が禁止された。
<参照>
http://www.milliyet.com.tr/1997/02/04/siyaset/sincan.html
http://www.milliyet.com.tr/1997/02/05/siyaset/sincan.html

■アタテュルク擁護法
トルコ共和国には「アタテュルク擁護法」と言われる法律がある。(法番号5816 正式名は「アタテュルクに反する犯罪に関する法」)この法律は1951年の民主党政権時代に制定され、アタテュルクの像や記念碑を破壊する者を厳しく取り締まるものである。当時共和人民党の独裁が終わり、民主党単独政権が誕生すると、アタテュルクの世俗主義政策に反発していたイスラーム主義者はアタテュルクの像を破壊する等の攻撃を行った。これに対し民主党は自身がアタテュルクの継承者であることを示すため同法を制定したが、この法律はアタテュルクが国民の支持を得ていたのではなく、国家によって支えられている権威であったことを意味していると言えよう。以下同法第1条。

1.アタテュルクの記念碑等を公に侮辱したり嫌悪を表した者は、1年以上3年以下の懲役に処す。またアタテュルクの像、胸像、記念像また記念碑等を破壊、汚したりした者は1年以上5年以下の懲役に処す。上述の罪を犯すよう他人を扇動した者も実行犯と同様の罰に処す。

Tweet
シェア


現地の新聞はこちらから

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:大島 史 )
( 記事ID:414 )