オスマン帝国最後の皇帝、名誉回復はなし(Radikal紙)
2005年07月20日付 Radikal 紙
最後のオスマン帝国皇帝ワヒデッティン(メフメト6世)に対する名誉回復措置について首相府は終止符を打った。
オスマン帝国の最後の皇帝ワヒデッティンに対する名誉回復についての議論は、ビュレント・エジェヴィト元首相によって政治的な懸案事項となった。エジェヴィト元首相は「解放戦争では、目に見えるような形ではないにしても、支えになっていたのは確かである。皇帝は多くの金や現金を所有していたが、イスタンブルを離れるときにはほんの少ししか持って行かなかった。尊敬に値する振る舞いだ」と述べ、議論はここから始まった。
他方、カフラマンマラシュ在住のバルバロス・ビルギン氏は、エジェヴィト元首相が上記の見解を表明してワヒデッティンの名誉回復問題が話題になる以前に、同問題を大国民議会の議題とするべく働きかけを行っていた。ビルギン氏はトルコ大国民議会嘆願書審議会に申請し、ムスタファ・ケマルにあらゆる権限を与えてアナトリアへ送ったのはワヒデッティンであり、ムスタファ・ケマルはこの権限を利用してトルコ共和国を建国した、と述べてワヒデッティンを擁護した。また、ワヒデッティンがトルコを去るとき、宮殿にあった金庫をトプカプ宮殿に借金とともに譲渡していたことを強調した。「オスマン帝国では皇帝は誰一人として祖国反逆者にならなかった」と話すビルギン氏は、「スルタン・ワヒデッティンが偉大なるトルコ大国民議会によって名誉回復されることを求めています」と述べた。
■首相府は議論にピリオドを打った
トルコ大国民議会嘆願書審議会は、ビルギン氏が申請した名誉回復に関する嘆願書を首相府に転送した。しかし首相府は「ワヒデッティンが反逆者であったかどうか」について全く議論を行わなかった。ビルギン氏への回答には、「嘆願書に関して首相府が行うべき手続はない」とあった。これをうけてトルコ大国民議会嘆願書審議会は、ワヒデッティンの名誉回復に関してそれ以上の手続きは行わないことを決定した。
■エジェヴィト元首相はなおも固執
エジェヴィト元首相は、昨日行われた記者会見で、ワヒデッティンに関してわかりやすく語った。エジェヴィト元首相はさらに、すでにいくつかの歴史的事実を国民の耳目の前に公開するべきときが来ていると主張し、アタテュルクが皇帝や宰相に知られることなく、また彼らから許可を得ることなくアンカラへ行くことは不可能であり、「歴史に関するこの種の真実を知ることは共和国にも他の誰にとっても害になることではない」と述べた。同氏は、セーヴル条約について複数の不明瞭な点があるとし、セーヴル条約には皇帝や宰相の署名はなく、この点は歴史家たちがより注意深く研究していくべき点であると述べた。
********解説************
ワヒデッティン(メフメト6世)Vahidettin
1861-1926(在位1918-1922)。第36代オスマン帝国スルタン。
1922 年11月1日に、アンカラの大国民議会によってスルタン制廃止が決定され11月4日にオスマン帝国政府が解散したことから、600年以上続いたともいわれるオスマン帝国は事実上滅亡した。それにともない、ワヒデッティン(メフメト6世)はオスマン帝国最後のスルタンとなった。スルタン制廃止後もワヒデッティンは居城であるユルドゥズ宮殿に数日間残ったが、11月17日にドルマバフチェ宮殿の船着場より、息子エルトゥールルと複数の従者とともに、イギリス巡洋艦マラヤ号でマルタ島に送られた。その後紅海沿岸に渡りメッカを訪問しつつトルコ以外のイスラム諸国での定住を望んだが、結局かなえられずにイタリアのサン・レモに居住した。同地で1926年5月16日に死去。晩年の家計は非常に逼迫していたといわれ、イギリス政府に生活保障を訴える手紙が複数発見されている。直系の子孫は現在アメリカに住んでおり、2005年はじめにトルコで放送されたドキュメンタリー番組でそのつましい生活ぶりが明らかになった。
解放戦争期のワヒデッティンの行動については諸説あるが、基本的には、自己の保身のために占領軍の中心だったイギリスに宥和的な態度をとり、国民の苦難に対する配慮は二の次だった、というのが定説である。しかしこの見解は、それが事実か捏造かはさておき、事実上イスタンブルのスルタンやその影響下にあったオスマン帝国政府に敵対していたアンカラの新政府の正統性を、スルタンの行動を批判することで高めようとするムスタファ・ケマル(アタテュルク)らの宣伝と密接に結びついていたのも確かである。そのため、ワヒデッティンの行動を肯定的に再検討することは、ケマルの政治言説、ひいてはトルコ共和国建国の基礎となる言説を間接的に切り崩すという性格を持っている。他方、そこまで政治的な意味づけがなくとも、イスラーム世界の盟主だったはずのワヒデッティンがトルコ脱出後に味わった苦労や、失われた大帝国オスマン帝国への憧憬から、最後のスルタン、ワヒデッティンに感情的な同情心を持つ場合も少なくない。
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( 翻訳者:宇野 )
( 記事ID:491 )