― 音楽祭のベイルート:遅れてやって来た夢のような喜びが爆発
2005年6月26日付アル・ナハール紙(レバノン)
昨日、ベイルートで盛大な音楽祭が行われ、市内のあちらこちらで、さまざまな旋律が奏でられ、数多くの観衆が集まった。大切なのは、音楽祭が喜びと生命の祭典であり、溢れ出す歓喜と生がここ最近の深い悲しみを上回ったことである。アル・ナハール紙(ハナーディー・アル・デイリー記者、シルヴァナ・ホーリー記者、マヤ・ミシュラブ記者)は、音楽祭の会場のうちいくつかを巡った。
■ジュンマイザ
昨日、ベイルートはまた一人の殉教者に別れを告げた。そして今日、我々の夢のように先延ばしにされていた音楽祭を祝おうとしている。昨日の夕方6時半、ジュンマイザの聖ニコラの階段では、年配者たちの顔に浮かぶ疑念と沈黙を、わずかに屈託のない子供たちの笑い声の響きが打ち破ろうとしていた。昨夜のステージは、我々の暗く沈んだ広場で夢を歌うためにやって来た才能ある少年少女、若者によるものだった。エリック・リッター、アントワーン・シャール、ムラード・ハーティム、ラニヤ・アブー・サムラがフランス語や英語で、愛、幸福、そして今日とはちがう明日への約束を歌った。明るい昼間の光を探し求める彼らの唯一の闘いの舞台のために、永遠の虹と、愛こそが王座を占める薔薇色の生のために、歌った。彼らの目の輝きは喜びを語り、家族の目の中に、また聴衆の拍手の中にも、同じ喜びを探し求めた。集まったのは、出演者の家族のほかは、賑やかな活気に満ち溢れた少年少女たちが中心だ。彼らは色とりどりの服を身に着けて、自分たちの美しさと若さを競い合っていた。家族の人々はあちらこちらでカメラを構え、束の間の喜びの瞬間を捉え、子供たちに何が起こるか不安な明日の思い出のために写真に収めようとしていた。
しかし、昨夜の最大の参加者はベイルートの街であった。恥じらいがちにではあったけれどもベイルートは、あの夢見る子供たちの目の色のような澄んだ空の下で、自由を取り戻して立ち止まった。子供たちは、彼らが歌った虹のように、長いあいだ雲に覆われ沢山の雨を降らせてきた空にようやく差した希望の輝きであった。彼ら子供たちは、洪水のない明日をこの街がためらいがちにではあるけれども約束していることの象徴のような存在なのだ。
■ベイルート中心街
ジュンマイザからベイルート中心街に移動すると、そこでは人々が往来をゆっくりと歩きまわっていた。なぜ急ぐ必要があるのだろうか。彼らは今夜、心安らかに音楽祭を祝っているのだ。この人々は、その市民を一人また一人と続けざまに失ったベイルートが自らの足で立ち上がるのを助けるであろう。悲しみにもめげずに微笑むこの都の街角で踊るであろう。殉教者たちは安らかに眠り、ベイルートっ子たちは跳びはね、束ね髪が宙を舞う。
今夜いくつの恋物語が生まれるだろうか。この娘は、音楽に合わせて別の若者と踊りながらも、こちらのCoolな若者を振り向かせようと懸命だ。あちらでは若者がガールフレンドの手を情熱的に握りしめている。その彼女は、レバノンの若いバンドが奏でるロックやラップやフュージョンやヒップ・ホップへの感銘をしきりと表明している。
兵士たちは問題の発生に備えて群衆の間を巡回している。けれど、今日は一息つけばいいのです。今夜は皆、機嫌がいいんですから。みんな、音楽と生命への愛を表現する方法を探してるんですから。この娘はまだCoolな若者の気を引こうとしているけれど、彼の方は木の下にあるステージでアラビア語のラップをがなってるお兄さん二人組に夢中。二人の自信たっぷりなところや聴衆とのコミュニケーションの能力が、彼の気に入っている。若者の髪型は「だらしない」。タバコに火をつけず、意図された何気なさで口の端にくわえる。ラップの歌詞は厳しい調子で若者の生活への不満や怒りを表している。音楽への聴衆の反応は、今夜彼らがリラックスしていることを物語っている。見知らぬ者同士が歩道の上で互いに微笑み合っている。誰もそのような行為に驚いていない。こちらの若者たちは、マナーラで趣味のSkatingをして遊んでいたが、たった今ここに辿り着いたところだ。腋の下にスケートボードを抱えて、歩道で踊っている。
「ジュンマイザで何やってるか見にいこうぜ」殉教者広場の近くに来た。車は騒がしい音楽に合わせてクラクションを鳴らしている。「すごいいい雰囲気だわ」Coolな若者への接近に成功したあの少女はそう叫んだ。
こちらの観光客の女性は写真を撮っている。こちらの男性は歌の意味は分かっていないけれど、今夜の自由の呼び声に反応していた。もっと年かさの面々は、お祭を楽しんでいる。喫茶店に座って談笑し、騒がしい音楽も気にならない。うるさくて互いに話が出来なくても気にしない。空気それじたいが語っている。ギターが世界的レベルのブルースを奏でている。
悲しみは身振りによって身体表現される。こちらの若者は携帯電話で喋りながら踊っている。どうやって通話相手の話を聴くことが出来るのだろう。こちらでは歌手がステージ上で気取ったステップを取り、自分のやり方でブルースを歌っている。
「おおきくなったらあの人みたいに歌いたいなあ。」坊やがお母さんに言うと、彼女は落ち着いて、「いけません」と言った。昨日、きらめくベイルートの街角で、どれほどの「気取った」光景が展開されたことか。そして、微笑みながら涙を拭うこの都の姿が、どんなに美しく見えたことか。
■教会で
「挫折は運命ではない」からこそ、ベイルートは音楽祭を催している。市内の広場や、通りや、さらには礼拝をする場所においてさえも。若者から中年、老人、そして様々な年齢の恋人たちが、悲劇から彼らを束の間でも救い出し、悲しみの中で彼らを慰め、彼らの夢を促し、彼らの中によりよい未来に向けて出発する希望を呼び起こしてくれるこの祭典を歓迎するために集ってきた。
昨日の夜、サイフィーのアルメニア・カトリック教会で、言葉は静まり返り、代わりに東洋的なリズムにのせた旋律の「礼拝」が執りおこなわれた。
旋律は、あらゆる悲劇の後に必ずふたたび起ちあがるベイルートの物語を語った...「東洋の微風」、「芳香」、「挨拶」などの旋律が、アンドレ・アル=ムスィンのウードによって奏でられる。自然に目を閉じると、しばし夢の世界へといざなわれる...時折パトリック・アル=ムスィンの打ち出す情熱的なリズムが、数々の痛ましい出来事を描き出す。するとジョゼフ・カラムのナーイが「泣かないで」の旋律を奏ではじめる。
少女たちのうちの一人の瞳が輝く。旋律は一時静まる。そしてふたたび、夜空に響きわたる...一曲目が終わると、皆拍手もせずに静まり返っている。人々の顔は、彼らがその一瞬のなかに浸り込んでいることを映し出している。...その中には、記憶をたぐり寄せている者もあれば、かの少女のように夢見る者もある。彼女は恋人に寄り添い、ささやく。そして彼は、彼女に微笑みかける。
まずウードが始まり、暫らくするとダーイド・アブー=アトゥマのカーヌーンがそれにつづく。そしてナーイが囁き、ダーイド・イスティファーンのタンバリンの金色の円板が震える。イマジネーションが「参加者-夢想者」の物語を紡ぎ始める。楽団が語り丹念に演じたその物語に皆が参加した。皆が暫らくのあいだ「楽譜」を離れて目を閉じ、東洋的なレバノンの夜の静粛さを前に頭を垂れる。一人の婦人が「神が貴方を祝福なさいますように」と叫べば、もう一人の婦人が嘆声で答える。
五人のメンバーが一時間の演奏を終え立ち上がると、拍手が鳴り響いた。一人の若者の目と唇が、もっと演奏を続けてほしいという願いを表明すると、一人の娘が低い声ですばやく言った。「ああ、ほんとうに」と。
しかし五人は次の楽団に場を譲った。こうして恋する人々が神聖なる場所に粛々と入ってくる。一人の若者が女友達に、「もっと早く来ればよかったね」と言った。二人は前に進み出て座り、旋律に耳を傾ける。その旋律に誘われて二人は秘密を打ち明ける...どんなことを打ち明け合っているのだろうか。
上を向いて一人で座っている若者がいる。彼は目を閉じ、ダーミー・ドゥーのエレキギターがバハー・ドゥーの打ち鳴らすリズムをともなって奏でる新たな物語の旋律に合わせて指を動かしながら、何処かを彷徨っていた。そして、一人の年配の男性が眼鏡を取り上げ、手許のプログラムに目を落とし、あの楽団を率いるウード弾きの名を探し求める。その名はズィヤード・アフマディーと言った。
第一列目では、一人の婦人が瞑想しているかのように前の座席に頭をもたせかけた。
音楽が礼拝を執りおこなったとき、平安があった。それは、言葉を止め目を閉じるとき、音楽が魂の秘められた部分をよく表現するからだろう。
およそ二時間にわたる「音楽療法」の後、皆は探していた平安を見つけたかのように教会を後にした。
この平安は続いてゆくのだろうか。それとも、現実に戻るとともに雲散霧消してしまうのだろうか?
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( 翻訳者:村山誓一 )
( 記事ID:371 )