EU代表部事務局長、加盟交渉開始直前に“想定外の”辞任(Milliyet紙)
2005年08月06日付 Milliyet 紙

EU加盟交渉開始へ向けた重要文書に調印したEU代表部のムラト・スンガル事務局長が辞任した。関係者によると、スンガル氏は“EU加盟問題がはっきりしない状態にある”ことに不満であったという。

トルコのEU正式加盟交渉の開始に向けた困難なプロセスに関わる人物の中でトップに位置する、EU代表部のムラト・スンガル事務局長が辞任した。スンガル氏は外務省に辞任願を提出し、EU加盟交渉開始日の10月3日の3日前にあたる9月30日に職務から退くことを公式に発表した。

■退職も望んだ

1942年生まれのスンガル氏は定年まであと2年残っているにも関わらず、(外務省からの)退職も望んでいた。
外務省の情報筋によると、スンガル氏は8月1日に辞任願を同省に提出した。EU代表部事務局長の職を辞し、さらに外務省からの退職も望んだことを明らかにしたスンガル氏は、辞任の理由を「10月3日から新しい時代が幕開けするに先立って、政府当局が彼らの望むメンバーで仕事ができるようにするため”とした。
辞任の事実をミッリイェトに認めたスンガル氏は、辞任決意についてのコメントは避けたいと述べた。辞任願を提出する前にアブドゥッラー・ギュル外相やEUとの駆け引きのテーブルに“代表交渉人”として着く予定のアリ・ババジャン国務相と会談したことを明らかにした。

■助言は注目された

政府の舞台裏ではスンガル氏が、政府がEUの要求した何点かの改善点で批判された、迅速さに欠ける政府の対応や不明瞭な雰囲気を解消しなかったことにも不満があったと噂されていた。
12月17日にEUがトルコの加盟交渉開始を決めたすぐ後に繰り広げられた、“代表交渉人探し”においてスンガル氏が政府に行った、「この任務には官僚の代わりに政権に影響力を持つ政治家を任命した方が利益にかなう」とのアドバイスは注目を集めた。
“代表交渉人探し”は長い期間に渡ったが、結局AKP政権はスンガル氏のアドバイスを受けて、ババジャン氏を任命した。
またスンガル氏は、加盟交渉を別の組織、あるいはEU代表部の職員や幹部らのサポートを受けながら推進するという内容の計画をかなり前に政府に提出していた。

■EU加盟に向けた重要人物

2003年2月6日にEU代表部事務局長に任命されたスンガル氏は、加盟交渉の開始において最も重要な官僚として知られている。「コペンハーゲン政治基準」を満たすためここ2年間で実施された、5項目の法改正と1つの憲法改正プランの準備には、スンガル氏直属のEU代表部が重要な役割を果たした。またスンガル氏は、EUの参加共同文書に対して今後トルコがたどるべき道筋をまとめた900ページにわたる国家プログラムの生みの親だった。

■不明瞭さを懸念

ギュル外相体制で、内務相や法相らが参加して組織された“改革観察グループ”に参加したスンガル氏は、アンカラに駐在するEU諸国の各大使と1年間定期的に会合を開き、トルコの改革プロセスについて情報を提供していた。
重責を担い敬意を獲得したスンガル氏の辞任が、EUとの関係の文脈でブリュッセルの欧州委員会やアンカラに駐在するヨーロッパ諸国の大使からの発言を生むことが期待される。
外務省の舞台裏では、ヨーロッパにおいて10月3日のトルコの加盟交渉開始の決定が再び議論を呼んでいる時期でのスンガル氏の辞任が、トルコ・EU関係の(先行きの)不明瞭さを増大させるのではないかと懸念されている。

■ジャズ界でも有名

1942年2月14日にアンカラで生まれたムラト・スンガル氏はアンカラ大学政治学部を卒業した後、アメリカのシンシナティ大学国際関係学科で修士号を取得した。1970年に外務省入りし、ブリュッセル(NATO)、イスラマバード、ワシントン、ニューヨークで様々なレベルの職務をこなし外交官としてのキャリアを積んだ後、ニューデリー大使館へ任命された。その後、外務省のスポークスマンも経験し、1995−1997年の間、タンス・チルレル、ネジュメッティン・エルバカン、メスト・ユルマズの各政権で首相外交顧問を勤めた。ジュネーブにあるトルコの国連オフィス常任代表も勤めるスンガル氏は外交キャリアの道へ進む前に“Sweaters”というロックバンドのピアニストをしていた。ドゥルル・ゲンジェ、ブラク・ギュルセル、アルパイも同じバンドのメンバーだった。ジャズ界とも密接な繋がりのあるスンガル氏のピアノの腕はプロ級である。

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( 翻訳者:永井ひとみ )
( 記事ID:605 )