アクバル・ギャンジー氏、退院しエヴィン刑務所へ戻る シャルグ紙
2005年09月05日付 Sharq 紙

2005年9月5日付シャルグ紙2面
【政治部】アクバル・ギャンジー氏は、ミーラード病院を退院し、エヴィーン刑務所へ移送された。

 病院の広報の発表によると、ミーラード病院での40日間の治療を終えたギャンジー氏は、昨日退院した。ギャンジー氏は、彼がハンストを始めてから数日後のイラン暦ティール月26日〔7月17日〕に、ひざの半月板損傷を治療するために、エヴィーン刑務所から直接ミーラード病院へ運び込まれた。彼は同病院でもハンストを再開し、それはその数日前に司法関係者がギャンジー氏のハンストが終わったことを伝えるまで続いた。

 新聞記者であったアクバル・ギャンジー氏は、イラン暦78年〔西暦1999年〕のベルリン会議に出席したことを理由に逮捕され、刑務所行きとなった。〔イスラーム体制に対して批判的な〕異端児であるギャンジー氏は、イランにおける批判的思想家たちの権利の保障を訴えている。彼は裁判で6年の禁固を言い渡されたが、刑期もあと7ヶ月弱を残すばかりとなっている。
〔注:ベルリン会議(記事ではイラン暦1378年(西暦1999年)に開催されたとなっているが、イラン暦1379年1月(西暦2000年 4月)の誤り)は、当時のハータミー前大統領を支持する改革派の知識人が多く参加したセミナーで、一部でイスラーム体制批判もあったことなどから、同会議に出席したジャラーイープール氏やメフルアンギーズ・カール氏などが一時拘束されるといった事態に発展した。ギャンジー氏が有罪判決を受けたのは、同会議に出席したことが原因であるというよりも、むしろ同氏が1998年から1999年にかけて数名の改革派知識人が連続して暗殺された事件に、ラフサンジャーニー元大統領や諜報機関関係者が関与していたとの暴露記事を執筆したことによる。なお、現在46歳のギャンジー氏はイラン軍で中心的な位置を占める革命防衛隊出身で、情報省の諜報員としても活動した経歴を有している。〕

 ミーラード病院の広報は、ギャンジー氏が入院していた間、定期的に同氏の病状について発表してきた。ギャンジー氏の退院を伝えた最新の発表では、以下のようにある。「イラン暦1384年4月26日〔西暦2005年7月17日〕に、内科、外科、整形外科、リューマチ科、理学療法科、栄養科の各分野の経験豊かな専門医師からなるチームの下で、ミーラード専門病院において診察、治療、追加検査を施すために入院していたアクバル・ギャンジー氏は、治療と追加検査を経て、イラン暦1384年6月12日〔2005年9月3日〕に良好な体調で退院した」。

 ギャンジー氏の妻マスーメ・シャフィーイー夫人は、シャルグ紙とのインタビューで、ギャンジー氏の退院については知らされていないと述べた上で、ギャンジー氏の家族からの面会要求にもかかわらず、1週間近く面会できないでいると告白し、さらに、それ以前に治療を受け退院した暁には、本来ならば刑務所に戻るのではなく、そのまま家に帰ってきて然るべきであるとも述べた。

 その一方で、テヘランの検察刑務次官を務めるマフムード・サーラールキヤー氏は、ギャンジー氏がエヴィーン刑務所に戻されたことについて、「ギャンジー氏は退院後、残された自らの服役期間を全うするためにエヴィーン刑務所へ移送された」とイラン学生通信に語っている。

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( 翻訳者:柴田愛子 )
( 記事ID:814 )