書くことが私の人生—作家エリフ・シャファク、ブックフェアで読者に答える (Milliyet紙)
2006年10月30日付 Milliyet 紙
エリフ・シャファクは、昨日、第25回イスタンブルブックフェアのミッリイェト・キタップ(出版社)のブースに特別ゲストとして参加した。読者の熱心な関心で迎えられたエリフ・シャファクは、まずミッリイェト・キタップの文化出版の責任者であるフィリズ・アイギュンドゥズの質問に答え、続いて読者の質問にも答えた。
9月16日に女の子を出産したエリフ・シャファクは、約1時間の対話で、母親になることから、トルコ刑法第301条により裁判にかけられた「父と私生児」という題名の小説まで、広範囲に渡り返答した。
シャファクは、この世に1つの命を誕生させることと、小説の主人公を創造することの類似性についてアイギュンドゥズ氏の質問に、以下のように答えた。
■作家としてのやり方
「赤ん坊というのは、束縛を要する一面をもち、他方神の恵みという面もあります。小説の主人公は、自分では、創造していると思っていても、実のところ作品の登場人物自らが自身を形作っているのです。しかし、自分の子供を持つということは、女性作家にとって責任感の重いものです。自分自身、作家と母親というジレンマに悩まされています。というのは、書くことは、自分勝手なものだからです。しかし、赤ん坊は、優先しなければいけないときがあるのです。」
シャファクは、このジレンマに直面し、母親になってからも作家活動を続けるかどうかということを考えた際、作家としてのやり方を思い浮かべて、自らに言い聞かせていると話した。自分が毎日同じペースで書く作家ではないとしたシャファクは、以下のように続けた。
「いつも振り子を抱えていました。あるときは、『書ける時期』という方向に振り子が傾いて、またあるときは、書くことから遠ざかって、より社交的な方に傾きます。今は、書くことから遠ざかっている時期です。しかしものを書いて生きている人間です。ですから、また振り子を反対側に戻します。」
■「変なショックを受けました」
エリフ・シャファクは、第301条で審理された裁判を、娘のシャハラザード・ゼルダちゃんを出産した翌日に病室にあるテレビで眺めたと語った。出廷しないことで、負担が少なかったどころか、逆に変なショックを受けたと話すシャファクは、そのときの心境を以下のように表現した。
「自分の写真が燃やされるのを見ました。私の写真につばを吐くあの女性が、果たして私の本を読んだのだろうかと考えました。しかし、(自分の身に降り掛かったことを)大げさに語りたくありません。なぜなら、これをエリフ・シャファクの裁判とは見ていないからです。トルコで第301条が理由で裁判にかけられた多くの作家がいます。これは、我々共通の問題であり、戦いだからです。」
■聴衆とともに罪の共有を実践した
シャファクは、対話の中で、社会がものごとをすぐに忘れてしまうのを強調し、30年間作家活動を続けているオルハン・パムクが1年前の発言で評価されることを批判した。エリフ・シャファクは、対話を実現してくれたミッリイェト・キタップのブースの「妨害をうけた文学と罪の共有」という展覧会がこうした忘れっぽさについて注目を集め、皆が意識化することに貢献するであろう、と述べた。展覧会を有意義なものだと述べるシャファクは、後にセイフィー・オンギデルが撰集した「2つの街のお話」という本を持って、朗読ブースに入った。そして、本の一部を読んで(聴衆とともに)罪の共有を実践した。
■「第301条がもたらしたものは、自由な表現を躊躇させること」
エリフ・シャファクは、「父と私生児」という小説が、非常に多重的な構造になっているにもかかわらず、アルメニア問題だけに関連づけられて注目を浴びたことに失望したと述べた。「父と私生児」でトルコ性を誹謗したとして彼女を批判した訪問客の一人が、シャファクの「私の本を読みましたか?」という質問に「いいえ」と答えることで、その批判が全く根拠のないものだということを証明する一方で、他の聴衆たちは、シャファクを支持した。
エリフ・シャファクは、裁判にかけられたことが、その後どう影響したかを以下のように説明した。
「実は、裁判なんて影響されないと思っていたのです。しかし、裁判後書くことになった記事で使うつもりだった批判的な文を目の前にして、生まれて初めて『この文のせいでまた何か起こるだろうか?』と自分に問いました。この種の裁判は、作家にとって知らず知らずのうちに自由に自分の意見を言うことを躊躇させます。第301条の問題が残した最も大きな影響は、自由な表現を躊躇させるということだと思います。」
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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:3818 )