子供の頃、ずっとムフティーになりたかったートルコ衣料産業協会長の言 (Yeni Safak紙)
2006年11月27日付 Yeni Safak 紙
トルコ衣料産業協会のアイヌル・ベクタシュ会長は、子供の頃ムフティーになりたかったにもかかわらず、オスマン語が習得できなかったことでその夢を諦めたことを述べた。
トルコ衣料産業協会会長兼ヘイ繊維、ヘイトラベルの社長であるアイヌル・ベクタシュ氏が、yonetisim.comというインターネットサイトの「仕事で成功した人たち」というコーナーへのコメントで「ずっとムフティーになりたいと思っていました。この職業は非常に価値あるものと考えられていました、そしてこのことが私にとても影響を与えたことを覚えています。」と述べた。
繊維会社の女社長であるベクタシュは、自分の人生を「チャンクルのチェルケス郡で生まれました。父は電気技師で、周りは父のことを『モーターバイクのアリ』と呼んでいました。家にあった一缶のチーズを売りながら、カラビュクの職業学校に通っていたそうです。父も学ぶことに興味があったようです。」と話した。
■夢のために、オスマン語コースに通った
昔の自分の夢がムフティーになることだったと話すベクタシュ氏は、以下のように続けた。「ムフティーになりたかったのです。あの頃は、女の子はオスマン語コースに通わされていました。このコースに私も通いましたが、習得できませんでした。しかし、ムフティーという職業は非常に価値あるものと考えられていましたし、それが私に大きな影響を与えました。あっ、そういえば、『獣医』も私に影響を与えた職業のひとつでした。『獣医さんが来ない、動物が病気だ、肉屋で切られた肉がそのままになっている、肉が安全であるか確認してもらうために獣医さんを待っているのだ』といった、当時理解していたわけではないのですが、重要だと信じ込んでいた会話を聞いて獣医になろうと決意しました。その後、アンカラ女子高校を卒業して、獣医学を学び始めました。しかし、気づかないうちに、間違ったグループに入ってしまっていました。手にプラカードを持って歩いているとき、私が居候させてもらっていた親戚の家のおじが私を見つけ、私は退学させられました。」
■一番初めに私の隣に来た男性と結婚した
アイヌル・ベクタシュ氏は、「我々の世界は、白と黒から成る純潔な世界でした。恋人もいませんでした。なので、一番初めに私の隣に来た男性と結婚しました。」と述べた。
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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:3991 )