かつてのギリシャ正教徒のむらにオリーブ博物館-オリーブ製品製造所に生き続けるギリシャ女性 (Radikal紙)
2006年12月25日付 Radikal 紙
トルコ人の間でレフィカと呼ばれていたアダテペ生まれのギリシャ人美女の本当の名前を、誰も知らなかった。レフィカは村のトルコ人にもギリシャ人にも好かれていた。彼女は美しいだけではなく、陽気で、結婚式では歌を歌い、ダンスも上手だったそうだ。彼女の美貌と親切さは、アダテペだけではなくあっという間に周辺の村でも評判になった。オリーブの収穫時期になると、レフィカが働いていた畑では、村人たちはオリーブを収穫しながらレフィカの歌も聞いていた。結婚式ではレフィカは必ず主賓として呼ばれ、歌を歌い、ダンスを踊った。
大部分がキリスト教徒であるアダテペ村で、長い間トルコ人とギリシャ人は平和に共に暮らしていた。しかし、第一次世界大戦により、他のアナトリア地域と同様にアダテペ村も悲惨な状況になった。トルコ人とギリシャ人の関係が冷却化し、徐々に衝突へと繋がっていった。その騒動にもかかわらず、トルコ人は依然としてレフィカに好意を抱き続けた。
戦後トルコ・ギリシャ両政府により住民交換が決められると、レフィカもアナトリアからギリシャに行ってしまった。この別れをトルコ人たちはとても悲しんだ。彼女がギリシャに行ってしまった後も、彼女の名の下に民謡が作られ、あらゆる機会に、特に結婚式で彼女の歌が歌われ、彼女の名の下にダンスが踊られた。この伝統は、今でもアダテペ村で続いている。
「レフィカの伝説を、村の長老で残念ながらもう亡くなってしまったアブディおじさんから聞きました。ずっと後でキオス(サクズ)島に住み着き、初のミス・ギリシャに選ばれたというようなストーリーで伝説として語り継がれたレフィカが住んでいた痕跡を見つけるために、我々4人はキオス(サクズ)島に行きました。彼女に関する情報は得られませんでした。しかし、偶然ある骨董品屋で見つけた写真の少女の美しさと表情が我々に強い印象を与えました。『彼女がレフィカにちがいない』と言いながら、村に持って行きました。アダテペの老人たちに写真の少女がレフィカかどうかを尋ねると、彼らは耐えきれず涙を流しながら興奮して『そうです!これは彼女です』といいました。長年に渡り我々に美しさと健康をもたらしている天然のアダテペ・オリーブAdatepe Zeytinyaglariの商標として、レフィカの写真をラベルとして使うことで、彼女を永遠の存在として残すことを決めました。」
このようにエルハン・シェンゲル、ハルーク・ユルトゥクラン、マフムト・ボイヌデリッキ、ミュフィット・エルカラカシュは、チャナッカレからアイワルックに南下する際、キュチュックユにある、路に面したオリーブオイル工場の門に写真が飾られている少女の話をした。
エルハン・シェンゲルはジャーナリズム学部卒で、大手の代理社で働いた広告マン。マフムト・ボイヌデリッキは政治学部卒で、観光ガイドとツアーコンダクター。ハルーク・ユルトゥクランも政治学部卒で、観光ガイド、旅行代理店の社長、観光マネージメントの経験があり、ボアズィチ大学で講義をしたこともある。ミュフィット・エルカラカシュも政治学部卒で、経営者である。
(中略)
■ アダテペ・オリーブオイル
4人は共同で伝統的な生産方法に適した工場を作った。アダテペのオリーブオイルとしてブランド化した。オリーブペーストから石鹸まで、オリーブの加工品も製品に加えた。村人たちも彼らを見本にし始めた。必要な手入れや生産条件などを観察するようになった。さらに、貯蔵や自分たちでブランド化するために、清潔で自然な包装をすることに協力しようとした。
工場の上の階は博物館に変えた。昔の圧搾機から貯蔵壷まで、オリーブオイルができるまでの全過程が見えるような博物館を作った。これは、同時にトルコ初で今現在唯一のオリーブ博物館である。
この4人が作ったものを世界に知らせるため取材旅行にでた記者の最初の訪問地はキュチュックユの工場だった。ソラマメとタマネギを調理してオリーブオイルをかけたバクラ・ケシュケク、イラクサ、ヨーグルト、オリーブオイルに卵を混ぜ合わせたチュルプマなど、その土地で獲れた食材で飾られた食卓に着く。オリーブオイルもすぐ隣の建物から持ってきた、作りたての新鮮なものを使う。その建物は50年もので、石鹸作りのために作られたもの。下の階ではオリーブが絞られていて、上の階は博物館になっている。我々記者は村で一夜を過ごすことになった。キュチュックユからカズ山の麓まで3㌔登ると、村があり、その村は本当にすばらしい。昔の石造りの家のほとんどは修復されていて、それぞれの家に味がある。その中の一軒を示して、「これは、オルハン・パムクの家だそうです。でも、彼がここに来たのを見た人は誰もいません」と説明してくれた。
翌日オリーブ農園に行った。男性は長い棒を持ってオリーブを木から落とし、女性はそれを集めていた。男性の日給は20~25新トルコリラ(1,680—2,100円)で、女性は15新トルコリラ(1,260円)。村人たちは、暮らしぶりを「だめだ。もう終わりだ」と説明している。
「3年前、一頭の羊は300新トルコリラ(25,203円)でした。今は80新トルコリラ(6.720円)です。チーズは3年前3新トルコリラ(252円)で、今も3新トルコリラです。」以前は、大多数が正道党(DYP)に投票していた。今でもDYP支持者はいるが、青年党支持者もいる。「我々は今回、分かっていながら国民のお金を自分たちのために使う泥棒に投票します」と政治的見解を述べている人もいる。「ではバイカルは?」という質問に「我々は民族主義者行動党(MHP)に投票しない」と答える。
キュチュックユを離れるとき、心はアダテペの石造りの家やオリーブやオリーブオイル、そしてレフィカから離れることはない。住民交換でギリシャに行ってしまった美女レフィカは、今工場の門やオリーブオイルの瓶のラベルや石鹸のパッケージの写真になって故郷に戻ってきた。彼女は、生まれ育った土地で生き続けている…。
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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:4216 )