イラク崩壊を招いた男サッダム・フセイン(Milliyet紙)
2006年12月31日付 Milliyet 紙

サッダム・フセインのフルネームは、サッダム・フセイン・アブデュルメジト・エル・ティクリティである。政権にあった1979-2003年の間、鉄拳で国を統治した。「抵抗する者」という意味を持つ「サッダム」の名にふさわしく、妥協のない振る舞いで世界に公然と反抗し、政権に就いた時以来この方、国家を戦争に引きずり込み、その崩壊を招いた。

アラブ世界を自身のリーダーシップで統一する、というサッダムの夢想は、2003年に、イラクを占領したアメリカ軍に拘束され、昨日(12月30日)処刑されたことで潰えた。

サッダム・フセインは、1937年5月28日、バグダートの北、ティクリートから13キロ離れたエル・オジャ村でスンナ派の貧しい家族の息子として生まれた。サッダムは、1956年、(復興された)バアス党に参加して政治活動を開始、1959年にイラクの指導者アブデュルケリム・カスムに対する暗殺計画に加わり、国外に亡命、シリアとエジプトで法律を学んだ。

1963年、バアス党がアブデュルケリム・カスム将軍を革命で倒した後、1979年に政権を継承し、国家元首、首相、バアス党党首、革命評議会議長、軍司令官の任に就いた。サッダム・フセインは、権力を握るや否や、敵対者たちを弾圧し、多くのバアス党のメンバーが処刑あるいは追放された。

全アラブ人の指導者を自任したサッダムは、政権を掌握してわずか1年後、イランでのイスラーム革命の影響を恐れて隣国に宣戦した。サッダムは反対派に暴力を加え、1982年、自身への暗殺計画容疑で、ドゥゼイルにおいて148人のシーア派の人々を殺害した。1988年には、クルド人の町ハラブジャにおいて毒ガスによって5000人を殺害した。

イランとの戦争で崩壊した自国経済を石油収入によって再建しようとしたサッダムは、1990年、石油価格を低下させているという理由をつけてクウェートを占領した。

9.11同時多発テロ事件の後、大量破壊兵器を保有し、テロを支援する「ならず者国家」としてイラクを断罪したアメリカは、2003年3月、イラクに侵攻した。2003年4月9日にアメリカ軍によるバグダートの攻略で姿を消したサッダムは、2003年12月13日、生誕地であるティクリートの、さる地下の穴で拘束された。

Tweet
シェア


現地の新聞はこちらから

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:高田利彦 )
( 記事ID:4261 )