作家オルハン・パムクは昨夜(7日)、ストックホルムのスウェーデン王立科学アカデミーでノーベル文学賞受賞スピーチを行った。
2006年ノーベル文学賞を受賞したパムクのために開催された式典は、王立科学アカデミーのホーラス・エングダール所長の開会の辞により始まった。エングダール氏が会場に入ってくると招待客らは立ち上がり、舞台上に現れたパムクに長い間拍手を送った。パムクの約一時間にわたる受賞スピーチに、文学界や芸術界から集まった大勢の関係者らが耳を傾けた。記者やテレビカメラも、式典のために世界各地から集まった。
「父のスーツケース」というタイトルのスピーチ原稿をトルコ語で読み上げたパムクは、会場を埋める招待客に感動をもたらした。舞台上で非常に落ち着いて見えたパムクは、時々ポケットに手を入れたり、水を飲んだりしながらスピーチを続けた。
スピーチでは、父親の残した文章からパムクが考えをめぐらした文学との関係を述べた。式典の最後には、父親が2002年12月に逝去したことに触れ「父親が今日ここにいてくれたら、ということを切に望みました。」と語った。
スピーチ原稿の翻訳を見ていた各国からの招待客は、何分もの間、最初は座ったまま、その後立ち上がってパムクに拍手喝采を送った。スピーチで、特に「世界の周縁にいるという感覚」と「本物になれるかどうかへの不安」について述べたパムクは、「文学とは何か」を示すために行ってきた努力を、様々な例を挙げて語った。
■授賞式は日曜日
スピーチの後、娘のルヤとともに祝福を受けたパムクは、著書へのサインも行った。パムクは、日曜日に行われる授賞式でノーベル賞を受賞する。
■スピーチ全文
私の父は死の二年前、彼の手記やメモ、ノートが詰まった小さなスーツケースを私にくれました。いつものように冗談めかした、いたずらっぽい雰囲気で、彼がいなくなった後、つまり彼が死んだ後にそれらを読んで欲しいと言いました。
少し恥ずかしそうに、「見てみなさい。」と言いました。「何か使えそうなものはあるかい。私が死んだら、選んで出版するといいだろう。」
父と私は、私の書斎で、本に囲まれていました。父は、苦しみを伴う非常に特別な重荷から開放されたいとでも言うように、スーツケースをどこに置こうかと、私の書斎を眺めながらうろうろとしていました。そして、手に持っていた荷物を目立たない隅にそっと置きました。互いに照れ臭さを感じさせたこの忘れ得ぬ瞬間が過ぎるや否や、私たちはそれぞれのいつもの私たちに、つまり人生を気軽に考え、冗談やいたずらを言う私たちに戻り、くつろぎました。そしておなじように、取るに足らないことや、人生、トルコの尽きることのない政治問題、たいてい失敗に終わった父の仕事について、深刻になりすぎることもなく話しました。
父が帰った後数日は、スーツケースに触ることもせずにその周りを行ったり来たりしていたのを覚えています。小さく、黒い、皮のスーツケース、そこについた鍵、丸みを帯びた角を私は子供の時から知っていました。父は、短期の旅行に出かける時や、たまに家から仕事場に荷物を持って行く時など、そのスーツケースを使っていました。
子供の頃は、この小さなスーツケースを開けて旅行から帰った父の荷物をかき回したり、中から香るコロンヤや見知らぬ国の香りを楽しんでいたのを覚えています。このスーツケースは私にとって、過去や幼少時代の思い出に深くまつわる、馴染みのある、そして魅力的なものでした。しかし、その時はまだそれに触ることすらできませんでした。なぜでしょう?それは間違いなく、スーツケースにしまわれていた中身が、謎めいた重みを持っていたからです。
この重みの意味について、今からお話いたします。それは、部屋に閉じこもり、机に向かい、片隅に引っ込んで紙とペンで自己表現する人間がすること、つまり文学の意味ということなのです。私は父のスーツケースに触れながら、どういうわけかそれを開けることができませんでした。しかし、中に入ったノートの一部については知っていたのです。そこに何かを書き付けている父を見たことがありました。スーツケースの中身は、初めて知ったものではありませんでした。
父の父つまり祖父は、裕福な実業家でした。父は幼少時代、青年時代を何不自由なく暮らし、文学や文章のために苦労したいと思ってはいませんでした。人生を、それがもつあらゆる素晴らしさゆえに愛していましたし、私はそれを理解していました。私を父のスーツケースの中身から遠ざけていた第一の感情は、当然のこととして、読んだものを気に入らないのでは、との恐れでした。父もこれを分かって、あえてスーツケースの中身を深刻に考えていないようなふりをしていました。25年間作家としてやってきたのにこのようなことを経験するのは、私にとって悲しいことでした。文学を真剣に考えていないと言って、父に対し怒ることもしたくありませんでした。私が本当に恐れていたこと、知りたくも、分かりたくもなかった本当のこと、それは父が優れた作家であるかもしれないということでした。本当は、これを恐れたために父のスーツケースを開けることができずにいたのです。さらには、この恐れの真の理由を私自身も認めることができずにいました。なぜなら、もしもスーツケースから正真正銘の、偉大なる文学が出てきてしまったならば、父の中に父と全く異なる人物がいることを認めざる得なくなってしまうだろうと思ったからです。これは恐ろしいことでした。なぜなら私は、自分がここまで年齢を重ねてきても、父にはただ父であって欲しいと願っていたのです。作家ではないのです。
誰でも、タイプライターを使ったり、便利なコンピュータを活用したり、あるいは、私のように30年間万年筆で紙の上に手で書いたりすることができます。書きながら、コーヒーや紅茶を飲んだり、タバコを吸うこともできます。時々机から立ち上がって、窓から外を、通りで遊んでいる子供や、運がよければ木々や景色を、もしくは暗闇にある壁を見つめることもできるのです。
詩、劇、または私のように小説を書くこともできます。これらには違いがあります。すべてのこの違いというのは、本来の書くという行為よりも、机に向かって忍耐強く自分の内なるものと向き合った後に生まれるものです。文章を書くというのは、この内なるものとの向き合いを言葉に置き換え、自分の内面からでて、新たな世界を、忍耐と、信念と、喜びを持って探求することです。
私は、真っ白なページにゆっくりと新しい言葉を加えながら机に向かい続けるたびに、日々、年月を重ねるごとに、自分の中に新たな世界を構築してきたと感じていましたし、また橋やドームを一つ一つ石を積み上げて築いてゆく人のように、自分の中にある別の自己を引き出したと感じていました。私たち作家にとっての石とは、言葉です。言葉に触れ、相互の関係を感じ、時に遠くから眺め見たりし、時に手のひらやペンの先でなでるようにしたり、その重みを計りながら、言葉を落ち着かせつつ、何年もかけて、信念と、忍耐と、希望を持って新たな世界を構築するのです。
私にとって作家であることの秘訣とは、どこから来るのか全くわからないインスピレーションにではなく、信念と忍耐にあるものです。トルコ語には“針で井戸を掘る”という素晴らしいことわざがありますが、私にはまるで作家のために作られたように思えます。昔話にある、恋人のために山に穴を掘るフェルハトの忍耐力が私は好きですし、理解できるのです。
『わたしの名は紅』という私の小説で、何年もかけておなじ馬を描いて懸命に覚えこみ、美しい馬を、目を閉じたまま描けるようになったイランの昔の細密画家たちについて描いた時、私は、作家という職業、私自身の人生について描いているのだと気がついていました。
自らの人生を他者の物語として丁寧に描写できるということ、この描写の力を自らの中に確信するために、私は思うのですが、作家は机に向かって、何年もの歳月をこの芸術と技に忍耐強く費やし、ある楽観を手にしなければなりません。ある者にはまったく訪れることのない、そしてまたある者には頻繁に訪れるインスピレーションの天使は、この自信と楽観を愛します。そして、その天使は、作家が最も孤独に感じた瞬間、作家が自らの努力や、考えめぐらしたこと、自らが書いた文章の価値に最も不安を感じた瞬間、つまり物語がただ自分だけの物語であると確信した時、自分が出てきた(現実)の世界と構築しようとする(虚構)の世界を結びつける物語を、または絵画を、そして想像力を作家に与えてくれるのであります。
私が人生のすべてを捧げた作家という職業において、身震いするほどの感動があるとしたら、私に至福を与えてくれる文章や、想像力、言葉を書き記したページが、自分のものではなく、何か異なる力がそれらを見つけて私に気前良くそっと与えてくれたのだと思うことでした。
私は、父のかばんを開けて、ノートを読むことを恐れていました。私がはまってしまった苦悩に、彼が決してはまらないであろうこと、父が、孤独ではなく、友人、賑わい、サロン、冗談、人々とかかわることが好きだと知っていたからです。しかしその後、私は異なる考えを持つようになりました。こうした考えや、苦しみや忍耐という想像は、私が人生と執筆活動から引き出した偏見であるかもしれなかったのです。
賑わいや、家庭生活、人々のざわめきの中、幸せに満ちたはしゃぎ声に囲まれて文章を書いた輝かしい作家も大勢いました。特に私の父は、私たちが子供の頃、平凡な家庭生活に飽きて私たちを残したままパリに行ってしまいました。ホテルの部屋で、他の大勢の作家のようにノートを埋めていました。
そのノートの一部がスーツケースの中に入っていることも私は知っていました。なぜなら、スーツケースを我が家に持ってくる以前に、父は自分の人生のその時期のことについて、すでに私に話し始めていたからです。子供の頃にも、その当時のことについて語ったことはありました。しかし、父がもっていた脆さ、詩人や作家になりたいという望み、ホテルの部屋でのアイデンティティーへの苦悩について語ったことはなかったのです。パリの小道で頻繁にサルトルを見たと話したり、読んだ本や映画について、何か非常に重要なニュースを伝えるかのように楽しそうに夢中になって話していました。
私が作家になったことに、パシャや偉大な宗教者よりも、世界の作家について語ってくれる父親が家にいたということが大きく関わっていることを、私は忘れることができませんでした。おそらく、父親のノートを読む時も、このことを考慮しつつ、また父の大きな書庫にどれだけ多くの借りがあるかを思い出しながら読むべきだったのでしょう。私たちと一緒に生活していた頃、父が私のように部屋に一人でこもって、本や思索にふけることを望んでいたことを、彼の文章の文学的価値をあれこれいう前に、私は気付くべきだったのでしょう。しかし、父が置いていったかばんを不安な想いで見ている時に、私にできないこともまさにこれであると感じていました。父は時々書庫の前のソファに横になって、持っていた本や雑誌を置くと、長い間思索や物思いにふけっていました。父の顔には、冗談やいたずらと小さな争いごとの中で過ぎていった家族との生活で私が見ていた父とは全く別の、内に向いた表情が浮かんでいました。特に幼少時代や少年時代の最初のころ、私は父のこの表情から父が悩みを抱えていると思い、心配したものです。何年も経った今では、この心の不安定が人間を作家にする最も重要なきっかけの一つであるということを知っています。
このような、本を気軽に読み、ただ自分の良心の声だけを聞きながら他者の言葉と議論し、本と対話しながら自らの考えや世界を構築する自由で束縛のない作家のうち、初の偉大な作家は、近代文学の始まりとみなされるモンテーニュでしょう。モンテーニュは、私の父が何度も何度も読み返し、私にも読むことを勧めてくれた作家です。洋の東西を問わず、世間との関係を絶ち、自らを本とともに部屋に閉じ込める作家という人たちの伝統、自分はその伝統を引き継ぐものでありたいと思うのです。私にとっての真の文学の出発点は、本と一緒に自らを部屋に閉じ込めた人なのです。
しかし私たちは、自分たちを閉じ込めた部屋にいたとしても、周囲が考えるほど孤独ではありません。他者の言葉、他者の物語、他者の本、つまり、私たちが伝統と呼ぶところのものが、私たちのそばにはあるのです。本とともに部屋に閉じこもり、まず自らの内面へと旅立つ作家は、数年後、そこで良き文学に欠かせない要素を発見することになるのです:つまり、文学とは、自分の物語を他者の物語であるかのように、そして他者の物語を自分の物語であるかのように語る能力のことだということを。この能力を習得するために、他者の物語や本から、私たちは出発するのです。
父には、一人の作家には十分すぎる1500冊の本を納めた書庫がありました。私は自分が22歳だった時、この書庫の本すべてを読みきってはいなかったと思います。しかし、本の一冊一冊は知っていましたし、どれが重要でどれが軽く簡単に読めるもので、どれが古典でどれが世界的な不朽の名作で、どれがある地域史のいまや忘れ去られようとしているが、面白い記録であるか、どれが父の敬愛するフランス人作家の本であるかを知っていました。
私は時々この書庫を遠くから眺め、いつか別の家で自分用にこのような書庫を、これよりももっと良い書庫を作るのだ、本で自分のための世界を作るのだと思い描いていました。父の書庫を遠くから眺めていると、時々そこが私には全世界の縮図のように見えました。しかしこの世界とは、世界の片隅である、イスタンブルから見た世界でした。書庫もそれを物語っていました。父のこの書庫は、海外旅行で、特にパリとアメリカから買ってきた本と、若い時、すなわち1940年代、50年代にイスタンブルで洋書を売っていた店から買った本と、私も知っているイスタンブルの古書や新刊を扱う本屋から買った本で埋め尽くされていました。
私の世界は、ローカルでトルコ的な世界と、西洋世界が交じり合ってできています。1970年代から、私は自らを主張するかのように自分の書庫を作っていきました。まだ作家になることを決めかねていました。『イスタンブル』という私の本の中でも説明していますが、私はもう芸術家にはならないのだろうと感じていました。とは言え、自分の人生がどのような道に進んでいくのかもはっきりとわからずにいました。
私の中には、あらゆる物事に対する飽くなき好奇心と、あまりに楽観的な勉学への欲求がありました。またその一方で、私の人生がある種“物足りない”人生になるのではないか、他の人たちのようには生きてゆけないのではないかと感じてもいました。こうした私の感情の一部は、まさに私が父の書庫を見ながら感じていたように、中心から離れているという想いと、イスタンブルが当時誰しもに感じさせたような、世界の中心ではなく周縁で生きているという感覚と関係していました。物足りない人生への不安ももちろん、絵画でも文学でも、芸術に対し大した興味を示さず、希望を与えることもない国で生きているのだということを、私が実感していたことによるものでした。
1970年代に、まるで私の人生におけるこの物足りなさを満たそうとするかのように、私はイスタンブルの古本屋から父がくれたお金で、色あせ、読み古され、埃をかぶった本を本を買った時、その古本屋や、道端、モスクの中庭、壊れた壁の入り口のところに露天を構えた本屋が、貧乏で不潔で、たいていの人に絶望を与えるほど哀れであったことは、読もうとしていた本と同じく私に影響を与えました。
世界での私の居場所については、人生でそうであったように、文学においても当時私が心の底で抱いていた感情は、この“中心ではない”という感情でした。世界の中心には、私たちが送っている生活よりもさらに豊かで魅力的な生活がありました。私は、すべてのイスタンブルの人々、そして全トルコと一緒に、この外側にいたのです。
こうした感情を世界の大多数の人と共有していると今日私は考えています。同じようにして、世界文学があり、その中心というのは私からはるか遠い場所にありました。実際のところ考えていたのは西洋文学で、世界文学ではありませんが、私たちトルコ人は西洋文学についてすら、その外側にいたのです。父の書庫もこれを証明していました。私がその隅々まで愛し、愛することをあきらめきれない私たちの世界、すなわちイスタンブルの本や文学書もありました。一方で、それには似ても似つかず、でもその似ていないということが、私たちに落胆と希望の両方を与える西洋世界の本もありました。書くことと読むことは、まるで一つの世界から抜け出して、他の世界にある違いやおかしさや不思議さで慰みを見つけるようなものでした。
父は、後に時々私もそうしたように、自分が暮らしている生活から西洋に逃げるために小説を読んでいるのだと私は感じていました。また、当時、本というのは、この種の文化的欠乏という感情を埋めるために私たちが頼りにするもののように思えました。読むことだけではありません。書くこともイスタンブルから西洋に行き来するような行為でした。
私の父は、スーツケースに詰まったノートの大半を埋めるために、パリに行き、ホテルの自室にこもりました。そして書き上げたものをトルコに持ち帰りました。このことも、私を不安な、そして嫌な気持ちにさせる原因であると、父のスーツケースを見つめながら感じていました。父のスーツケースを見つめていたとき、25年間、トルコで作家としてやっていくために自分を部屋に閉じ込めた後、自己の内面から表出したように物を書くということが、社会、国家、人々とのかかわりを断ちひっそりと行わなければならないものであることに、それが作家というものの仕事であるということに、私はすでに抵抗を感じていました。おそらく、これが一番の原因です。自分の中に抵抗感があったからこそ、父が作家というものを私ほど真剣に捉えていなかったといって私は怒っていたのです。
でも本当は、父が私のような人生を歩んでこなかったこと、どんなことにも小さな衝突すらおこさず、社会の中で友人や愛する人たちと笑いながら幸せに暮らしていたことに、私は怒っていたのです。しかし、“怒っていた”の代わりに“嫉妬していた”と言えるでしょう。おそらくはこの言葉の方が正しいのだということを私は頭のどこかでわかっていて、そのために不快に感じていたのです。
現地の新聞はこちらから
( 翻訳者:倉本さをり )
( 記事ID:4078 )