2006年3月19日付シャルグ紙1面
【政治部:レザー・ホジャステ・ラヒーミー】ジャーナリストで、刑務所に収監されていたアクバル・ギャンジーが、2244日間に及ぶ刑期を終え、土曜日の深夜に自宅に戻った。
ギャンジーの釈放は、二つの理由で、予期せぬ出来事であった。まず、ギャンジーは夜10時に、エヴィン刑務所の職員に連れ添われて、自宅に帰ったのだが、テヘラン検察庁の監獄担当の次官は、同氏釈放の数時間前、インタビューでギャンジーの釈放はファルヴァルディーン月10日〔3月31日〕であると語っていたからだ。実際、ギャンジーの釈放は、予定されていた新年〔3月21日〕明けではなく、年の暮れに行われたため、ギャンジーの妻もこの予期せぬ出来事に驚きを禁じえなかった。
ギャンジーの釈放が皆を驚かせたのには、もう一つ理由がある。それは、〔ギャンジー氏釈放の報を聞いて駆けつけた〕ギャンジーの友人や記者らが彼の自宅に入った際、ギャンジーとは似ても似つかぬ顔をした人物に出くわしたからである。やせこけた頬をすっぽりと覆うほど長い髭をたくわえていたギャンジーの顔は、以前とは驚くほど違うものであった。モフセン・キャディーヴァルなどは、小さく微笑んで、「君の顔はまるでロビンソン・クルーソーじゃないか。いったいどこから帰ってきたんだい?」とからかうほどであった。
記者やギャンジーの友人らが驚いた表情で彼を見ていると、彼もそれに答えて、笑いながら、「思想の多様化の代わりに、顔の多様化も経験しておくべきだよ‥‥。僕も刑務所では随分と変わってしまって、髭までたくわえるようになったんだ‥‥。政治的な議論の代わりに、神秘主義思想とか仏教思想の議論でもしようかな」。
■■■
昨日のアクバル・ギャンジーは、しかし、記者らには〈沈黙〉以外に何も話すまいと心に決めていた。彼は数カ月前〔一時的に〕仮釈放されていた際、記者会見を設定し、記者らとのインタビューの席に座っていた。しかし、刑期を終えて釈放された今回は、彼は〈沈黙〉という伝統を選んだようだ。
とはいえ、ジャーナリストとしてのアクバル・ギャンジーにとって、それも考えられる限り最も困難な状況下にあってもなお、沈黙を受けいれようとはしなかったギャンジーにとって、〈沈黙〉はたやすいことではなかったはずだ。ギャンジーの横に付き添っていたレザー・テフラーニー氏は、ギャンジーに〈沈黙〉を破らぬよう促し、何度も「アクバル、お願いだから‥‥」と繰り返していたくらいなのだ。
〔後略〕
訳注:アクバル・ギャンジーはイランの著名なジャーナリスト。最高指導者親衛隊である「革命防衛隊」出身で、諜報員として反体制活動の取り締まりなどをしていた彼は、1990年代後半以降、急進的な体制批判のジャーナリストに転向、1998年の知識人連続殺人事件に国家が組織的に関与していたことを〈暴露〉する記事を執筆した。2000年にドイツで開かれ、改革派系知識人が大挙して参加した〈ベルリン会議〉から帰国後逮捕され、反体制プロパガンダの罪などで懲役6年の実刑を受けた。ギャンジーは、2005年に判決の無効と刑務所の待遇の改善を訴え、ハンガー・ストライキを起こすなど、その後も体制に挑発的な行動を繰り返してきた。
現地の新聞はこちらから
( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:2090 )