「国民=宗教派」と「イスラーム革命聖戦士機構」の関係小史 シャルグ紙
2006年04月18日付 Sharq 紙

2006年4月18日付シャルグ紙1面

【政治部:モハンマド・ジャヴァード・ルーフ】24年の歳月を経て、エッザトッラー・サハービーとベフザード・ナバヴィー両名の会談が行われたことが、昨日公表された。両者はそれぞれ、「国民=宗教(メッリー・マズハビー)派」と「イスラーム左派」を代表する人物である。

 このニュースは、サハービー技師がイラン労働通信(ILNA)とのインタビューの中で伝えたものだ。このニュースは決して耳新しいものではなく、ずいぶん前から改革派の政治サークルの間で語られていたものではあるが、しかしこれまで両者から伏せられてきた。

エッザトッラー・サハービーとベフザード・ナバヴィーの会見は、昨年のバフマン月〔2006年1月下旬から2月中旬〕に行われた。サハービーによると、この会見実現の背景は、サハービーと「イスラーム革命聖戦士機構」のスポークスマンを務めるモフセン・アールミーンが昨年相互に交わした書簡にさかのぼる。この書簡の交換は、サハービーがイスラーム革命聖戦士機構に対して行った批判を受ける形で行われた。国民=宗教派評議会の議長を務めるサハービーは、昨年「民主主義・人権戦線」への合流を見合わせたイスラーム革命聖戦士機構の態度を批判し、同機構こそイスラーム革命の潮流に参加した諸勢力間に、「本来的か、非本来的か」の議論を持ち込んだ最初の政治集団だ、としたのである。

 サハービーのこの発言は、イスラーム革命聖戦士機構からの反応を惹起した。同機構のスポークスマンを務めるモフセン・アールミーンは、サハービーに宛てた書簡の中で、同機構の立場を擁護し、「本来的/非本来的」の区別は、合法的反体制派勢力、中でも「国民=宗教派」が憲法の枠内で自らの活動を継続し、見解や批判を提起できるようにするための、一種の理論的準備だったのだとしたのである。

 その後、サハービーはアールミーンに宛てた手紙の中で、自らとイスラーム革命聖戦士機構の間の過去二十年間における対立に関し、別の議論を仕掛けた。この手紙は、もちろん公表されることはなく、両政治集団の内的な対話を記録したものとなった。両派間のやり取りは70年代初頭〔1991年頃〕から徐々に積み重ねられるようになったが、そのきっかけとなったのも、イスラーム革命聖戦士機構のかつての機関誌『われわれの時代(アスレ・マー)』に発表された、先の「本来的/非本来的」に関する同機構の有名な分析であった。

 70年代初頭〔1991年頃〕に発表されたこの分析は、さまざまな政治勢力を「本来的」と「非本来的」の二つのグループに分割するものであった。「本来的」勢力とは、ヴェラーヤテ・ファキーフ〔イラン・イスラーム共和国体制の基本的政治イデオロギーで、「法学者の監督」を意味する〕と憲法に忠実な勢力であるとされ、そこには四党派が含まれていた。すなわち、「伝統右派」(イスラーム連合党及びその周辺グループ)、「新左派」(アンサーレ・ヘズボッラー)、「新右派」(建設の奉仕者党)、そして「伝統左派」(イスラーム革命聖戦士機構を含む「イマームの路線に従う党派」)である。それに対して、その他の政治勢力はイデオロギー的理由から「非本来的」であるとされた。その上で『われわれの時代』誌は、(非本来的な)反対勢力を、「合法的」と「非合法的」の二つのグループに分け、合法的な反対勢力に対しては政治的活動を行い、議論を発表する場を与えることが、体制にとって望ましいとした。というのも、非合法的な反対勢力とは違い、合法的な反対勢力は「平和的な政治行動」を旨としており、もし彼らが合法的な活動手段を持たず、体制の側から弾圧されるようなことがあれば、非合法的な反体制勢力に合流する可能性もあるからだ。

 イスラーム革命聖戦士機構の反対勢力に対するこのようなアプローチが採られたのは、それまで他の体制派の政治勢力がより単純に、「黒か白か」で政治的な色分けをしてきた中でのことであった。「黒か白か」の単純なグルーピングにおいては、政治党派は単に「ヴェラーヤテ・ファキーフに忠実か否か」、あるいは「宗教的か非宗教的か」で分割され、事実上「支配イデオロギー」がその唯一の根拠であった。そこでは、政治分析上の最低限の正確さやきめ細かさすら欠けていた。他方、イスラーム革命聖戦士機構のグルーピングでは、確かに「ヴェラーヤテ・ファキーフと憲法に忠実であること」が、「本来的か非本来的か」の基礎に据えられていたことは事実であるが、しかし反対勢力の間だけでなく、体制派勢力の間にも、さまざまな差異が認められていたのであった。

 にもかかわらず、国民=宗教派が、イスラーム革命聖戦士機構が擁護したような意味で、このグルーピングを捉えることはなかった。反対に同派は、それを右派に対する一種の「グリーン・シグナル」であり、国民=宗教派や「イラン自由運動」勢力を国の意思決定と運営から排除するのと引き換えに、体制における自らの存在を維持するためのものであると分析したのである。イスラーム革命の勝利に功績を残した勢力の一員とみなされていたサハービーやエブラーヒーム・ヤズディー博士といった人物にとって、それは受け入れがたいものだったのである。

 両派の関係は、過去約15年間イランの政治に生じたさまざまな変化にもかかわらず、それほど好転することはなかった。この間(そして実際には、1376年ホルダード月2日〔1997年5月23日〕の大統領選挙におけるイスラーム左派の勝利後)、イラン・イスラーム参加戦線の結成により、事実上国民=宗教派からもイスラーム革命聖戦士機構からも、イデオロギー的アプローチ・見解で距離を置く流れが、イラン政治に生まれた。このことによって、徐々に両派の対話・協力のための環境が準備された。

 国民=宗教派やイラン自由運動を代表する人物がイラン・イスラーム参加戦線の年次総会に招かれ、一部の国民=宗教派のプレス関係者が同戦線に近い改革派新聞と協力するなどの歩み寄りがみられたことは、両者の全面的な政治協力ヘ向けた動きの第一歩といえるものであった。このような協力へ向けた動きは、昨年の大統領選の際に最高潮に達した。参加戦線の事務局長を務めるセイエド・モハンマド・レザー・ハータミーや、セイエド・モスタファー・タージザーデやハミード・レザー・ジャラーイープールといった同戦線の中央評議会メンバーらが、イスラーム共和国内の合法的・宗教的反体制活動家の代表的人物であるサハービーやヤズディーと会談を行い、モスタファー・モイーンを自陣の立候補者としてともに擁立することを公表したのだ。

 もちろん、サハービーやヤズディーは、「民主主義・人権戦線」の立ち上げを、モイーン支持の条件としていた。モイーン自身、昨年のホルダード月7日〔2005年5月28日〕、声明の中でこのことを認め、大統領選に勝利しようとしまいと、「民主主義・人権戦線」の立ち上げに向け尽力していくことを表明している。

 このニュースは、両派〔国民=宗教派やイスラーム革命聖戦士機構〕に近いさまざまな政治活動家や学生、勢力に肯定的な反応を呼び起こしたが、しかし同時に、両派にはこのことに批判的な人物がいたことも事実である。国民=宗教派からは、例えばハビーボッラー・ペイマーン博士や、さらにはサハービーに近い一部の政治活動家らがこの動きを批判し、モイーンを支持する改革派の宣伝に利用されることに警戒する声が上がった。他方で、イスラーム革命聖戦士機構は、見解としては「民主主義戦線」の結成を歓迎したものの、同機構はイラン・イスラーム参加戦線指導者と国民=宗教派指導者の接触には関わっていないとして、この政治連合と自らを分け隔てる境界線を事実上維持したのであった。

 このような動きがあったにもかかわらず、大統領選挙後は徐々に両派間の不満は減退していった。一方で国民=宗教派のさまざまな党派(特にペイマーンや「闘うムスリム運動」における同氏の支持者ら)は、モイーン博士と、彼と同一歩調を取ったイラン・イスラーム参加戦線が民主主義戦線結成へ向けて模索を続けたことに好感を示し、同戦線の準備会合に代表者を送り出すほどであった。他方でイスラーム革命聖戦士機構は、昨年開かれた同機構の大会で、再度同戦線には合流しない旨宣言したものの、戦線の結成に対しては繰り返し歓迎の意志を表明するなど、以前に比べてこの政治的動きに対し、前向きな姿勢が生まれているのも事実である。

 このような状況下で、サハービーとベフザード・ナバヴィーが会談を行ったとのニュースが発表されたことは、イランの政治史に大きく関わってきた国民=宗教派とイスラーム革命聖戦士機構の両派を協調へと導く努力にとって、転換点となりうるものであると考えられる。革命前の政治闘争に深く関わってきた過去をもち、非宗教指導者をその中核に有し、イスラーム共和国樹立後の国会や政権に参加し、一種の「宗教的近代知識人」の流れを汲み、プレスや大学といった領域での活動に特別な役割を果たし、そして最終的には「権力構造から排除」されたという点で、両派は共通している。

 他方、政治的行動といった点からも、両派はともに(公式の言説とは異なった解釈でではあるが)憲法の枠内で活動してきたし、(あらゆる外からの干渉とは一線を引いた)内からの改革を強調してきたという、共通点がある。にもかかわらず、両派の間には対立点、問題点も少なくない。とはいえ、これらの対立は、イデオロギー的=戦略的な対立に端を発しているというよりはむしろ、「歴史的」な対立にその根元がある。昨年のバフマン月に行われたサハービーとベフザード・ナバヴィーの会談でも、この歴史的不満にほとんどの議論が費やされた。

 この会談は、サハービーが昨日のILNAとのインタビューで述べたように、イラン・イスラーム戦線の若い党員たちの提案で行われたものである。それによると、彼らはベフザード・ナバヴィーと、歴史的・イデオロギー的問題について、またイスラーム革命聖戦士機構が他の政治勢力との間で維持している境界について、数回に渡り話し合いをした上で、サハービーとの会談を提案し、ナバヴィーもそれを受け入れたとのことである。

 かくして、長い政治的経歴を有する二人の人物が、24年ぶりに会見の場につき、対話を行うための準備が整ったのである。彼らが顔を突き合わせて対話を行ったのは、1360年〔1981年〕のテレビでの討論会以来であり、そこではサハービーとナバヴィーはアボルハサン・バニーサドル政権が最後に提出した予算案について、計画や予算の専門家として評価を行っていた。

 それ以前にも二人は、1358年〔1979年〕に(当時イラン自由運動の一員であった)モフセン・サーズガーラー〔現在アメリカの「ワシントン・インスティテュート」のイラン問題専門家として活躍する反体制知識人〕の仲介で、首相府でクルド問題について話し合いを行っている。ナバヴィーとサハービーは当時、不穏な暴力沙汰へと発展していたクルド問題の解決に、ともに何らかのかたちで関わっていたが、当時の故メフディー・バーザルガーン首相によってクルド問題検討委員会の委員に任命されていたサハービーやその他の関係者らは明らかに、ベフザード・ナバヴィーを中心とする「イマームの路線に従う党派」がクルド問題の解決とコルデスターン地方の平穏化に対する努力を妨害していると考えていた。この問題は、27年を経てなお、未解決なまま残されており、言われているところによれば、最近のサハービーとナバヴィーの会見でも、革命の初期にコルデスターン地方で起きたさまざまな事件が主要なテーマの一つとして議論されたという。

〔後略〕

Tweet
シェア


現地の新聞はこちらから

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:2246 )