Tufan Turencコラム:世俗主義に関する尖鋭さ競争(Hurriyet紙)
2006年04月28日付 Hurriyet 紙

ビュレント・アルンチ大国民議会議長とレジェプ・タイイプ・エルドアン首相が理解し望んでいた世俗主義は、現代世界が理解する世俗主義とは、いかなる点からも関係がない。
実際、両者の世界観や信仰に対する考え方が、世俗主義と折り合いをつけることは不可能である。アルンチとエルドアンが夢想する体制は、世俗的かつ民主的な共和制ではない。従って、共和国の諸制度は不本意なのだ。彼らは民主主義の必要条件である権力分立すら望んでいないのである。

国家の幹部をすべて自分の世界観にあった人間で占めてしまおうとする彼らの試みを妨げている大統領府に対して、彼らは怒っている。任命の執行を停止し差し戻す判決を与える者、つまり法律・法規に反して行動する政府の権限を反古にする行政裁判所に怒りを感じているのである。
憲法裁判所は、世俗的かつ民主的な体制の上にイスラームの覆いを被せる目的で、エルドアンたちが作った諸法律を無効にした。彼らは憲法裁判所のことも全く快く思っていない。

彼らは共和国の諸大学を嫌悪しており、かつそれらを何が何でも思うままにしたいと思っている
近代的教育の代わりに、宗教に重きを置いた教育を据えるため、徐々に前進している。だからコーラン・コースやイマーム・ハティプ高校のことで動揺するのである。
この理由により4月23日には、21歳の成人男性を子どもと称して話をさせている。アルンチが行った大国民議会での見世物とその後の講演は、この現実に照らして評価するべきであろう。

エルドアンがグループから退席したことも、同じ観点から見る必要がある。アルンチとエルドアンが始めた尖鋭さ競争は、どんな打算でなされているとしても国に打撃を与えるのである。
この打算は、国をイスラームを重視した体制に移行させることから大統領府にまで及んでいる。
エルドアンは主権は国民にあると言う時、自分が矛盾の中にいることに気づいていない。自身を国会へと送り出した力は、国民主権である。主権を80年前、宮殿から奪い国民へ与えたのは、共和国である。エルドアンが言わんとした国民主権は、実際は国を恣意的に管理する主権である。
つまり、共和国を時代遅れにすることを意味している。

アルンチが述べたように、世俗主義は社会生活を牢獄に変えるものではない。しかし世俗主義がない諸国は、今日牢獄のようになってしまう。この事実は、トルコ以外の全イスラーム諸国にとって、程度の差こそあれ当てはまっている。エルドアンとアルンチは忘れていることだが、トルコはアタテュルクのおかげでそれを逃れているのである。

■解説メモ
ぬか喜び
ライスは風のようにやってきて去っていった。「PKK問題に関し我々の努力を二倍にしましょう」と述べ、政府はこの言葉を非常に喜んだが、これはぬか喜びである。というのも、ブッシュ政権がPKK問題に示した努力はゼロである。これを2倍にしようがしまいが、何になるだろうか? 何にもならない、ゼロはゼロだ。

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:2326 )