欧州人権裁判所でタトラヴ氏勝訴:「宗教を批判することは可能」(Milliyet紙)
2006年05月04日付 Milliyet 紙

宗教を侮辱したという理由でトルコで刑罰を受けた作家のタトラヴ氏が、欧州人権裁判所(ECHR)での裁判に勝訴したことは、トルコで新たな議論を生み出した。

ECHRは、イスラームを批判したとして刑罰を受けた作家のエルドアン・アイドゥン・タトラヴ氏に関する判決において、「イスラームも批判することができる」としてトルコに賠償金の支払いを宣告したことは、新たな議論を生み出した。

ECHRの「ある宗教を信じる者の信仰が他者によって拒絶されることは、寛容に受け止められなければならない」として、トルコに有罪を宣告した理由文付の判決を、今日まで宗教批判をすることを避けてきた神学者たちは冷静に受け止めた。一部の神学者は、信者を批判することと宗教を批判することは別だとする一方、一部からは「イスラームを批判することは可能だが、人々の信仰を『おとぎ話』だと言うのは批判の範囲を超えており、心を傷つける」という声も上がった。

タトラヴは、『イスラームの真実』という本の中で、「コーランはムハンマドによって書かれた」と主張、人間が泥から創られたことや、預言者モーゼが杖で紅海を2つに分けたというような出来事も、科学的根拠のない「預言者のおとぎ話」だと断じている。

■デリケートな線を越えなかった
タトラヴ氏に、ECHRの判決ならびに著書『イスラームの真実』について聞いた。

・ECHRの判決をどう受け止めたのか?
―ECHRの判決は、世俗的な法律家であるということを忘れ、まるで宗教裁判所のような考えにとらわれている裁判官を罰した。他方で、私の本が科学に基づいていることを認めた。
私の弁護士であるフィクレト・イルキズとともに、この判決を契機として、私が裁かれる理由となった法律の撤廃と、世俗主義に適合する法整備の実現に向けて再度訴訟を起こすつもりだ。また、この賠償金をそもそも法律を自らの都合のいいように適用した裁判官や、市民通報者が支払うよう要求している。

■私は世俗主義を擁護した
・あなたの本には何が書かれていたのか?なぜイスラームを批判し、コーランを侮辱したことで裁判にかけられたのか?
―何も書いていない。私の本は、宗教と良心の自由という文脈で世俗主義を擁護するものであり、イスラームを政治的イスラーム主義やシャリーア主義として、すなわち人民の権利と自由を侵す目的で利用しようとする考え方に反対している。イスラームは歴史的、科学的、そして社会主義的観点から疑問視されている。1200ページある私の本をよく読めばお分かりになるはずだが、侮辱など全く無い。私は預言者ムハンマドがコーランを書いたと言っただけなのに、裁判所はこれを侮辱とした。

・判決理由に示された唯一の例がそれなのか?
―いいや。例えば、コーランにある預言者の表現を「おとぎ話」だと表現した。トルコ語の用法という点から考慮すると、「おとぎ話」という言葉は侮辱を含まない。おとぎ話とは証明できない、科学的な答えがない表現である。

・「おとぎ話」という言葉をどのような意味で使ったのか?
―おとぎ話という言葉をトルコ語として侮辱の意味で使っていないことは、該当する箇所を見れば分かるだろう。しかし(その言葉で)科学的でないことや、歴史上そのようなことはなかったということ、ノアの洪水のような、似たような物語がその当時の時代の人々の頭の中で作られ、信じられていたことを表している。

・本の何版目で裁判を起こされたのか?
―6版目で裁判を起こされた。当時は福祉党と正道党の連立政権だった。

■神学者は判決について何と言ったのか?
・神学者サイム・イェプレム教授:宗教を批判するのと、宗教の信者を批判するのは別である。信者を中傷することは、思想の自由の範ちゅうで論じられるものでも、自由の観点から取り扱われるものでもない。ある人が自分は科学的な自由を行使していると言いながら、他人の神聖な価値を傷つける表現を用いることは出来ない。いずれかの宗教の信者が真実だと信じていることをおとぎ話であると言うのは、人々の心を傷つける。

・ゼケリヤ・ベヤズ教授:トルコ刑法には、宗教の信者を傷つけることに対する罰則規定がある。この本で著者が用いている「おとぎ話」というような表現は、(主張の)目的を超えていると考えられる。おとぎ話ではなく、もっと別の表現が使われるべきだった。しかし、宗教に対しても批判はあるべきだ。

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( 翻訳者:佐藤 淳也 )
( 記事ID:2350 )