パリのガザーリー:マルブランシュの哲学における神中心主義 ハムシャフリー紙
2006年06月13日付 Hamshahri 紙

【セイェド・モハンマド=レザー・ハリールネジャード】

 「神中心主義」という問題は、偉大なコーランでも非常に強調されている最も重要な問題の一つであり、信仰の指導者たち(彼らの上に平安の在らんことを)の御言葉の中にも、その証拠は沢山見られる。それにも拘らず、人間が世界を認識する方法や真知認識、存在認識の仕組みにおけるこの問題の根源的地位は、あまり明らかにされていない。イスラーム思想やマルブランシュ哲学において提示された諸理論の総体をある程度まで言い表している、「神中心主義」あるいは「神枢軸主義」という用語は、マルブランシュが自身の哲学を、“神中心的(Theo centeric)”と呼んだところから用いられた。機会原因論とは、原因関係について、想像的にその同一性を解釈することである。原因性の問題は、哲学史における諸問題の一つであり、存在論以降、最も根源的で神秘的、かつ最も重要な哲学上の問題である。存在認識の次元においても、また真知認識の次元においても、原因性の問題と全く関わりがない問題は殆ど存在しないのだが、個人的、社会的行動におけるこの考えの大きな影響は、正しく明示されなかったり、あるいは無視されていたりする。この記事は、イスラーム思想とマルブランシュ哲学における神中心主義についてのガーセム・カーカーイー氏の著作(ヘクマト出版社発行)を考察しながら書かれたものである。

 17世紀のヨーロッパにおいて、つまり西洋における新しい科学や哲学による変革が起こった一世紀後、またデカルトの哲学的諸思想が活発になり、デカルト派の哲学者たち(ライプニッツ、スピノザ等)が現れ、ガリレオやニュートンの科学的重大事が起こった後、マルブランシュ(1638-1715)という哲学家は、パリにおいて哲学的思索の道を歩み始めた。彼は神・人間・自然の関係について、アシュアリー派神学者たちの見解に極めて類似した思想を提示した。そして自身の哲学上の見解を「機会原因論」と名付け、その思想の説明に勇敢に努めた。彼はキリスト教の聖人や中世キリスト教の神秘主義的神学者の信仰、特にアウグスティヌス(354-430)の戒則を、デカルト派の理性主義(理性による真理の追究)と結合させた。(中略)

 この理論(機会原因論)によれば、魂と肉体との間にはどのような影響関係もありえず、そのどちらに対しても、実際に影響を与えている行為者は神である。勿論マルブランシュは、あらゆる場面において唯一影響を与える原因であるのは神であり、それ以外のものは全て機会原因(Occasin al causes)であるという考えに基づいて、この原理をより総体的な形で提示している。つまり、神を除いたあらゆるものの影響作用が否定されるのだ。(中略)

 イスラーム思想におけるこの問題の歴史も、おおよそイスラーム自体の歴史と一致する。イスラームの根源的な、神の唯一性をめぐる諸思想のひとつが、行為体の唯一性である。イスラーム思想では、コーランの事象や伝承がこの考えの基となった。(中略)

 イスラーム哲学が諸原理の一部にギリシアの思想家たちの影響を受けてきたにせよ、イスラーム思想、殊にイスラーム神学や神秘哲学は、神の唯一性をめぐる思想において、コーランの事象や宗教指導者たちの言葉から非常に強い影響を受けている。そこに見られる事象やその章句によれば、万物の創造者、教育者、管理者は神である。神の力と意思の領域から抜け出せるものは、何一つない。〈神は〉絶対的王者であり、全能である。換言すれば、全ての箇所は「神中心主義」、「神枢軸主義」について語られているのである。(中略)

 この神学者集団(ムウタズィラ派*1)とは逆に、アシュアリー派神学者は神とその力の「尊重」に熱心に力を注ぐという立場を取った。(中略)

 アシュアリー派神学者たちは、いかに神の力の範囲に広がりを与えるというやり方で神の地位の偉大さやその威厳の「尊重」の目的を実現させても、それに関わらず、預言者たちの教示やコーランの章句にみられる事象、善行と罰、来世、天国と地獄に意味を見出すために、何とかして人間の行動を神に結び付けなければならなかった。同様に諸事に対してもまた、明白な[コーラン中の]事象を否定しないために、何とかしてその特別性や威信を信じなければならなかった。「獲得理論*2」や「偶因に対する信仰」といった概念、つまり機会原因論が生まれたのには、このような背景があった。(中略)

 マルブランシュとイスラームの思想家たち(アシュアリー派神学者たち)において、このような信念を生むきっかけや土台がいかに異なっていたとしても、彼らの言説の外面は互いに類似している。一部ではマルブランシュの理論がアシュアリー派における「獲得理論」そのものだと主張されたり、さらにはマルブランシュがその理論を「アシュアリー派」から文字通り「獲得」したという推測さえされたほどである。(中略)

 言っておくべき大事なことは、以下の点である。イスラーム思想とマルブランシュ哲学の間における神中心主義の比較研究は、その範囲がアシュアリー派神学者たちの諸思想や著作に限られてはいなかった。それどころかイスラーム思想の広大な領域全てを広く研究する必要があり、特に問題解決の道は、イスラーム神秘哲学とイスラーム世界の偉大なる哲学者、今は亡きサドル・アル・モタアッレヒーン*3の超越的哲学の中にその活路を探ることができる。話を要約すると、「存在の本質的実在性」、「存在の統一性」、「存在の多元性(類比性)」という超越的哲学の土台の正確な意味をよく理解せず、この哲学的規則の神秘哲学的、コーラン的、伝承的な味(要素)を知的味覚をもって経験しない限りは、精神界、人間界、自然界の多数性の桎梏は、自己のうえに何かしら残ったままになるのだ。

 キリスト教の思想において、マルブランシュは神的機会原因論の信念の最高見本である。彼のおこなった行為体の唯一性の擁護は、神学的性質と神秘哲学的性質の両方を有している。つまり機会原因論を、神学的次元と神秘哲学的次元の二つで提示したのである。神学的次元においては、その動機と信念という面から見て非常にアシュアリー派的であるだけでなく、むしろそれ以上で、アシュアリー派神学者、特にガザーリー*4から[その思想を]引用しているのである。彼のこのアシュアリー派的思想がキリスト教的神秘哲学と混ざり合った時、彼の神秘哲学的機会原因論は理解されるのだ。故に、機会原因論の推移をアシュアリー派主義から神秘哲学へ追っていった時、両者の間にたとえ違いが見られようとも、この部分でのマルブランシュは非常にガザーリー的である。

 マルブランシュのアシュアリー派的な神は、ガザーリーの神学的な神と同じように古の残酷な神であるが、一方で彼の神秘哲学的な神は、新たな時代の慈愛に満ちた神である。(後略)


訳注
*1 コーラン聖書と同様、記述に矛盾が見られる。それらの矛盾を理性的な論証でもって解消しようと努めたのが、このムウタズィラ派である。例えば、神には様々な属性(「慈悲深き者」、「慈愛あまねく者」等)が認められていたが、彼らは、これは永遠なる唯一神に、それ以外の様々なものを並列させる「多神教」に他ならないとし、神から次々と属性を剥ぎ取っていった。これにより、一般信徒たちは神を具体的に表象することが出来なくなり、信仰は崩壊し、逆に神の地位は失墜した。この神の地位を、元の高みへと押し上げようと努めたのが、アシュアリー派である。
*2 アシュアリー派神学の主要概念の一つに「原子論」と呼ばれるものがある。それによれば、世界は全て、最も微細な単位である原子から成っており、それら原子が結合することにより、ものが生まれる。そして神はそれら全ての原子を一瞬一瞬不断に創造する。つまり、世界の諸事象は全て神の瞬間ごとの不断の創造の結果とされる。
このような世界観の中では、人間の行う行為は、その人間の為に神が創造した「行為」を人間が「獲得」しているに過ぎないとされる。これが獲得理論である。この理論においては、神によって創造された行為を、行為者が獲得し、行う瞬間に、行為者は自らの意思で、それを獲得しているとされる。その為、神の全能性が保証されながら、行為者の責任も明らかにされる。
*3 サドルッディーン・シーラーズィー(通称モッラー・サドラー、1571または1572-1640)。
サファヴィー朝期の神秘哲学者
*4 アブー・ハーミド・ガザーリー(1058-1111)

なお本文の訳語・訳注については、『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2002)、『新イスラム事典』(平凡社、2002)、モッラー・サドラー著・井筒俊彦訳『存在認識の道』(『井筒俊彦著作集10』岩波書店、1993)を主に参照した。



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( 翻訳者:中西悠喜 )
( 記事ID:2739 )