ミールダーマーディー、イスラーム参加戦線の総書記に選出 シャルグ紙
2006年08月12日付 Sharq 紙
2006年8月12日付シャルグ紙1面
【政治部:モハンマド・ジャヴァードルーフ】モハンマド・レザー・ハータミーの後継として、モフセン・ミールダーマーディーが、結成8年目のイラン・イスラーム参加戦線にとって二人目の総書記に選出された。
51歳になるミールダーマーディーは、新総書記選出のための党内選挙で、党大会に出席していた186名から156票を獲得、旧友であるモハンマド・ナイーミープールを引き離した。
選挙戦は、当初予想されていた以上に、友好的雰囲気の中で行われた。ナイーミープール自身、いつもの笑みをたたえた表情で、選挙戦の帰趨を冷静に眺めていた。このような光景は、ちょうど2年前、アリー・ショクーリーラードがセイエド・モハンマド・レザー・ハータミーと同党の総書記の座を争って、結局6〜7票しか得られなかったときと似ている。しかし参加戦線第9回党大会の開催地《アミーロル・モオメニーン文化センター》を支配していた雰囲気は、2年前の《シャヒード・バーホナル・センター》で開かれた第7回党大会の雰囲気とは、まったく違うものであった。
当時、レザー・ハータミーをさらにもう一期総書記の座に就かせるための党中央評議の説得工作が失敗するとの懸念は、ほとんど起きなかった。それに対して、木曜日夜に行われた新総書記選出は、長きにわたる曲折を経たものだった。選挙当日ばかりか、最低でもここ数ヶ月にわたり、参加戦線の党員や支持者、そして政治専門家らの間には、新総書記選出をめぐり、さまざまな憶測が流れたのである。
これらの憶測は、木曜日夜に党中央評議会の新評議員が選出された際に頂点に達した。新評議員には、以下の面々が正評議員として選出された
・モハンマド・レザー・ハータミー〔第6議会副議長〕
・アブドッラー・ラマザーンザーデ〔ハータミー政権時代の政府報道官〕
・サイード・ハッジャーリヤーン〔ジャーナリスト、暗殺者によって瀕死の重傷を負った経験あり、元情報省員〕
・モフセン・ミールダーマーディー〔第6議会議員、元革命防衛隊員〕
・セイエド・モスタファー・タージザーデ〔元内務次官〕
・エラーヘ・クーラーイー〔女性政治活動家、第6議会議員〕
・モフセン・サファーイー=ファラーハーニー
・ハミード・レザー・ジャラーイープール
・ハーディー・ハーニーキー
・ジャラール・ジャラーリーザーデ
・モハンマド・ナイーミープール
・アフマド・シールザード
・セイエド・サフダル・ホセイニー〔元経済財務相〕
・マフムード・ホッジャティー
・アフマド・シールザード
・キャリーム・アルガンデプール
・ホセイン・カーシェフィー
・サイード・シャリーアティー
・ファーテメ・ラーケイー
・アリー・アスガル・ホダーヤーリー
・ダーヴード・ソレイマーニー
・サイード・シールキャヴァンド
・ハーディー・ガーベル
・ファフロッサーダート・モフタシャミープール
・アッバース・クーシャー
・ナーセル・ハーレギー
・モハンマド・アリー・サアダーイー
・シャムソッディーン・ヴァッハービー
・モハンマド・キヤーヌーシュラード
・アリー・ショクーリーラード
・アルージャアリー・マフムーディー
そして補欠として、以下が選出された。
・ザフレ・アーガージャリー
・ファリーデ・マーシーニー
・ジャアファル・カームブーズィヤー
・モハンマド・ホセイン・シャリーフザーデガーン
・ホセイン・ナスィーリー
新評議員選出後、評議員らはすぐにアミーロル・モオメニーン・センターの中庭に面した会議室で非公開の会議を開き、約1時間議論した後、ナイーミープールとミールダーマーディーの両氏を新総書記の候補者として推薦した。
他方、投票資格を有している大会参加の若手らはそれ以前に、ラマザーンザーデを新総書記候補として推薦していた。中央評議員選挙においてラマザーンザーデがレザー・ハータミーと同等の高い票数を得ていたことで、新総書記戦では彼がミールダーマーディーと接戦を演ずるのではないかとの憶測が強くなっていった。
これにも関わらず、ラマザーンザーデは若手からの推薦も、新中央評議員からの推薦も固辞した。この理由について、ラマザンザーデは次のようにシャルグ紙記者に語っている。「個人的な問題が理由だ。私には、これまで〔党の活動に割くべき〕十分な時間がなかった。党は、すべての時間を捧げることのできる総書記を必要としている。ミールダーマーディー氏は過去8年間、党のためにもっとも多くの時間を割いてきた人物だ」。
本紙が得た情報によれば、新中央評議会の会議では、ラマザーンザーデ以外に、エラーヘ・クーラーイー、サフダル・ホセイニー、サファーイー=ファラーハーニー、そしてモスタファー・タージザーデらが総書記候補として名前が挙がったが、最終的にミールダーマーディーが評議員の第一候補に選ばれ、ナイーミープールがその次に選ばれたとのことである。
▼ 二人の旧友
ところで、ナイーミープールとミールダーマーディーの二人は、長らく歩みを共にしてきた旧友同士だ。彼らは《イマーム〔・ホメイニー〕の路線を支持する大学生》のサークルの一員として、大学生時代から交遊がある。彼らは、左派陣営が用いる《同志》ということばよりもむしろ、《兄弟》と呼んだ方が適切かもしれない。
この長きにわたる兄弟関係において、より華やかな道を歩んできたのは、つねにミールダーマーディーの方であり、ナイーミープールは彼の陰に甘んじることがほとんどであった。そこには、彼らの個性が強く関わってきたことは、間違いない。ナイーミープールは基本的には笑みを絶やさない人物だが、しかし内向的な性格の持ち主だ。それに対して、ミールダーマーディーは仲間らの間では、実に快活な性格で知られている。このような性格は、彼を遠巻きから眺めるだけの人、メディアや講演会の中でしか彼を知らない人にとっては、もちろん知りえぬことだ。
ミールダーマーディーは職歴の点からも、通常ナイーミープールよりも少しだけ高い地位を経験してきた。また、過去27年間つねに同一歩調をとってきた彼らだが、ミールダーマーディーの方がより政治的な志向を有している。このような志向性は、彼が大学生だった頃から顕著だった。
53年〔1974年〕にアミーレ・キャビール工科大学(当時のポリテクニック大学)に入学した時から、彼は学生らによるあらゆる政治運動に積極的に関わってきた。友人の一人であるヴァファー・ターベシュは、「彼は、体は小さいが、しっかりとした話しぶりで有名だった。また、左翼マルクス主義の学生たちに対するイスラーム・グループの立場を理論的に説明することにも長けていた」と証言する。
58年〔1979年〕には、ミールダーマーディーはムスリム学生運動の中心人物の一人として、テヘランのアメリカ大使館の占拠に加わる。彼はポリテクニック大学を代表するかたちで、この運動の中心にいたのである。ミールダーマーディー以外では、シャリーフ工科大学を代表してエブラーヒーム・アスガルザーデやモハンマド・セイフォッラーヒーが、テヘラン大学を代表してハビーボッラー・ビータラフが、メッリー大学(現在のシャヒード・ベヘシュティー大学)を代表してラヒーム・バーテニーらがいた。
アメリカ大使館は、〔占拠された当時、〕イラン・イスラーム参加戦線の創設者たちの一部を育んだ《巣》であった。その中には、アッバース・アブディー、ヴァファー・ターベシュ、モハンマド・ナイーミープール、アリー・アスガル・ザフマトケシュ、ハビーボッラー・ビータラフ、シャムソッディーン・ヴァッハービー、マアスーメ・エブテカールらがいる。
〔後略〕
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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:3254 )