クーデターのため、家族は長く離ればなれになった (Radikal紙)
2006年09月11日付 Radikal 紙

 両親はトルコ共産党の精力的な党員…。クーデターの発生は、彼らも近い将来逮捕されることを意味した。このため両親は2歳のバルカンを親に預け、海外逃亡の方法を模索していた(この時代には3万人が政治難民として海外に逃亡した)。2人の目的は、落ち着く場所を得るや否や息子バルカンを引き取ることだった。だが彼らの思惑に反して、バルカンには8歳になるまでパスポートは発給されなかった。長年両親に会えず寂しい思いをしていたバルカン少年が、オランダで両親と抱き合った瞬間にどのような感情を抱いたのか、彼らを本当の意味で許したのかは私達には知る由もない。おそらく、現在28歳になった新聞記者のバルカン・タル氏も知らないだろう。しかし、(1980年)9月12日クーデターを起こした人間に対して憤激を感じていることを自身よく知っている。

―クーデターのニュースを知ってあなたの家族はどうしようと決めましたか?

 両親はその時期には立場を鮮明にしていました。2人ともトルコ共産党の党員でした。母は同時に進歩的婦人協会の指導者でもありました。2人はすぐに指名手配リストに載ることになりました。彼らはすでに偽造身分証明書を持っており、私には遊びながら新しい名前を教え込もうとしていました。私は新しい名前を言うようになりましたが、他方では笑っていたのです。政治難民となるべく彼らはオランダに申請していました。1981年に母方のおじが拘留されると、私を母方の祖母に預け、アンカラの父方の祖母の許へ送ることとなりました。

―物心がついた頃、「お母さんとお父さんはどこ?」と尋ねましたか?

 祖母のところにいた際は、このことは全く話題になりませんでした。祖母はこの話題を特に避けていたのです。私はしばらくすると、祖母を「お母さん」、祖父を「お父さん」と呼び始めました。さらに祖母はいつ頃か私におどけて「おまえは私が産んだのだよ」というようになりました。その後私が彼らを本当の両親だと思っている姿をみて、両親がオランダにいることを説明しました。理由は父がそこで働いているからということでした。政治に関することは一切話しませんでした。祖父母はこの状況は一時的なものであり、私にもいつか両親の許へ行く日が来ると話しました。私が友人たちに「ぼくの両親は共産党員だ」と言うことを恐れたのだろうと思います。このためこの時期、両親について覚えているのは、週に数回電話で話したこと、折々に玩具を送ってきたこと、そして手紙です…。後に祖母は私に「お前がまだ6,7歳だった頃、お前の両親が共産主義者だと私は話すつもりだったのだろうか?」と言いました。

■「私は両親に慣れようとしたようだ」
―数年後本当の両親の許に行ったとき、何を感じましたか?

 オランダに行った時、私は8歳でした。初めはもちろん少しよそよそしさを感じました。例えば、空港で私は両親を見分けることができませんでした。また、後に母に聞いたところによると、家の壁に絵を描いていたらしいです。ある日、母は私と遊んだ際、病人の近親者役を演じ、私は医者役になりました。母は私に「息子は、なんで家の壁に絵を描くでしょうか?」と尋ねたとき、私は「あなたたちに慣れるため」と答えたそうです。このような一時的な困難もありましたが、正直な話、私はオランダを気に入っていました。

―新しい環境には簡単に慣れることができましたか?

 両親だけではなく、彼らの友人たちの間でも、人気者になりました。皆私を心配し、訪ねてくれ、定期的にプレゼントや玩具もくれました。昔は内気で、少し臆病でもあった子供の私が社交的になりました。受け答えできるようにもなりました。オランダは同時に私にとって意識的になる環境となりました。両親がこの長い離別の原因を9月12日クーデターであると説明すると、この日ははじめて私の頭に強く刻み込まれました。長く、不当な離別…。その後ベヒジェ・ボランの追悼で行われた式典で、ギュルテン・アクンがエルダル・エレンのために書いた「大きくなれ」(という詩)をエディプ・アクバイラム(の歌)で聞いたとき、エルダル・エレンについて知りました。そして隠されていたこともある形で知ることになりました。私の家族は党のメンバーだと。私もその頃少年政党の設立に着手したことがあります。ですが、その後具体的な行動をとることができなかった。考えることと行動に移すことは別です。その頃の臆病さは、なんであれ、おそらく今でもなくなってはいないでしょう。

―9月12日クーデターで何を連想しますか?

 9月12日は、現在でも、すごい勢いで続いています。気づいたことに耐えるのは、今も、限度があります。オルハン・パムク、エリフ・シャファク、ペリハン・マーデンといった作家の身辺で生じたことは、この文脈において、容易に読みとることができます。また新しい現象としてトルコに定着化したリンチの試みも挙げられると思います。こうしたことが生じる最大の理由は、クーデターを起こした者を裁けない国であるということです。私達は9月12日クーデターを一刻も早く清算しなければならないのです。この点において、多くの仕事が私達世代に課せられています。私達の人生はまだ、前に進んではいません。記憶の空白はとても大きなものです。私でさえも、一連の事象を覚えているわけではないのです。いくつかの詳細は記憶から消えてしまいました。見ないふりをして、言い訳を探しているのです。他方で、私達は不幸に感じており、頭の中は混乱しています。

■「行われた拷問は説明されなければならない」
―なぜ頭の中が混乱しているのですか?

 この理由さえわかりません。しかし、経験してきた停滞を見ないふりをすることや、合理的に考えようとすることは、不幸感を強めるだけです。「目を閉じて、自身の仕事だけをしよう」という態度はやめなければなりません。ケナン・エヴレンは単にいま絵を描いて過ごしている元大統領というだけではありません。ケナン・エヴレンがどのような人間かということと同時に、17歳で絞首刑に処されたエルダル・エレン、左翼の書籍を刷ったために殺害されたイルハン・エルドスト、平和協会のメンバーであったために拷問を受けた元大使のマフムト・ディケルデムのことは人々に説明されなければならない。ママク刑務所やディヤルバクル刑務所で起こったことは、明るみにされねばならない。これらの人々がいかなる人物であるのか、ママクやディヤルバクルの刑務所がどのようなところなのかを知らなければなりません。こうしたことは、私達自身とのちの世代のために私達が負っていることです。



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( 翻訳者:岩根匡宏 )
( 記事ID:3475 )