暗殺から8日、ディンク氏抜きのアゴス紙発行
2007年01月27日付 Radikal 紙

編集主幹を何年間も務めた新聞社の前で殺害されて後、昨日(26日)初めて「彼なし」で発行されたアゴス紙、その全紙面にフラント・ディンクがいる。同紙では、彼を死に導いた経過と共に、葬儀での「無言の人波」の抗議が書かれている。ディンクの息子、アラト氏は、「愛する父よ」と締めくくったその記事の中で今後の活動を誓い、作家から芸術家、退職労働者から弁護士に至るあらゆる社会階層の何十人もが彼の記事についての思い出と、彼らの心の中のディンクを綴った。

フラント・ディンクの死後、初めて発行されたアゴス紙は、全24ページをディンクのために割いた。メディアの著名人たちは、新聞制作の間、真夜中までアゴス紙社員と共にあり、新聞制作の傍ら、お茶の給仕役すらやったそうだ。アゴス紙は通常5千部の発行だが、今週は3万5千部に増刷した。この3万5千部の新聞のうち、2万部はイスタンブルの外へ送られた。

■ フラントのトルコ

エトイェン・マフチュプヤンを編集主幹として発行された565号の第一面には、アゴスの署名と、「フラントの後」という見出しの記事が載っている。葬儀に参列した人々への感謝が述べられ、こう加えられている。

「バラバラになった石榴の実を、まるでもう一度集めたような、あのあらゆる民族からなる「アルメニア人」(と唱えた者たち)へ… 彼らは地平に、私たち(アルメニア系国民)を意味あるものにし、私たちがその中に存在することを望み、一員となれるトルコを示したのだ。フラントの(望んだ)トルコを…。」

11年を経て初めてフラント・ディンクなしで発行された新聞の一面は、彼の葬儀と、人々の抗議で飾られた。

第3面の半分には、葬儀の写真が掲載されている。残りには、「そして良心が反抗した」との見出しで、葬儀への印象が書かれている。記事の最後では、数万人が集まった葬儀は、トルコがアルメニア問題に率直に、そして憚ることなく向かい合うため、比類ない効果をあげた、と強調されている。

第4面には、ディンク殺害の前後を分析したオメル・ラチネルの署名記事が載っている。ラチネルは、「フラントは、自身の殺害を2004年2月に予感していた。サビハ・ギョクチェンの民族的出自に関する、あの有名な記事を書いてから、彼が受けた脅迫は、自身の殺害を意識させたことだろう」と述べている。ラチネルによると、サビハ・ギョクチェンがアルメニア系であるという考えを投げかけたフラントは、このことで、ムスタファ・ケマルの唱えた民族主義は人種的民族主義に因るものではないと証明するのを望んでいた。しかし、公的イデオロギーの名の下で議論する者たちの怒りは、彼を根底から揺さぶったのだ。この記事が書かれたページの一番上には、ディンクがオウムに餌を与えているときの写真も掲載されている。

(中略)

(AGOS)
親愛なる友よ
今日、皆さんに語るべき多くはない。
私たちの人生を自らの人生で意味づけてくれたホラントが逝ってしまい、今私たちは異なる新たな局面に連れてこられた。支柱を失った魚の群れのようにまず心乱れた。しかしのちに全トルコが私たちと同じ心持ちであり、この点よりフラントを将来の(目標とすべき)地平へ誘うことができようと気付いた。

不思議な感情だが、トルコもアゴス紙も恐らくかつてこれほど心強く思ったことはなかった。お手元にある本号には何十人にも亘る友人の協力がある。ホラントの理想とした新聞に近づくため歩みを続ける。本新聞社に勤める者として、この歩みに共に加わってほしいと望んだエトイェン・マフチュプヤンと共に…。

苦しみの日々にあって私たちを支え、抱き、励まし、希望を抱かせてくれるすべての友に感謝します。しかし深謝するのは、あの声なき人波…。バラバラになった石榴の実を、まるでもう一度集めたような、あのあらゆる民族からなる「アルメニア人」(と唱えた者たち)へ… 彼らは地平に、私たち(アルメニア系国民)を意味あるものにし、私たちがその中に存在することを望み、一員となれるトルコを示したのだ。フラントの(望んだ)トルコを…。

(下略)

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( 翻訳者:林奈緒子 )
( 記事ID:10017 )