ディンク氏殺害犯ハヤル、過去の爆破事件犯行後に「反社会性人格障害」を診断されていた
2007年01月31日付 Milliyet 紙
ディンク氏殺害犯ハヤルは3ヶ月間「バクルキョイ」にいた。法廷は爆破事件実行犯のハヤルを「礼儀正しい態度であり、誰もが手に入れることができる材料で個人で爆弾を製造した」ため釈放していた。
ヤシン・ハヤルはフラント・ディンク氏を狙った殺害の幇助で逮捕されたが、トラブゾンのマクドナルド爆破事件で審理された訴訟での釈放までの経緯が注意を引いている。
訴訟書類によればハヤルは、10ヶ月の拘留期間のうち3ヶ月を病院で過ごしたが、「誰もが手に入れることができる材料で爆弾を製造した」という見解も根拠となり釈放された。ハヤルが爆弾を単独で製造したという情報と、トラブゾン警察が、事件で名前が出ていたエルハン・トゥンジェルを「情報員」としたものの告訴対象から除外したことも訴訟の進行に影響した。このようにして「組織的犯罪ではない」との判定を下されたハヤルは10ヶ月で釈放された。
■反社会性人格障害
ハヤルは2002年に81-2期生としてアンカラのギョルバシュで兵役に就いた。兵役服務中、自分を罵ったとの理由で軍曹を殴ったハヤルに対し、「反社会性人格障害」があるとの医師の報告書が提出された。
ハヤルは、2004年10月24日にトラブゾンのマクドナルドに爆弾を投げ6人に負傷を負わせ、建物と周囲にある車輌に損害を与えたため、この事件後に拘留された。約10ヶ月拘留されたハヤルは、拘留中に精神的障害があると主張し、兵役服務中に医師が書いた報告書を証拠として提出した。
このためトラブゾン重罰裁判所は、ハヤルをイスタンブル-バクルキョイ精神・神経科病院に移送した。拘留期間中の約3ヶ月間を過ごした病院で、ハヤルには「精神的障害はない」との報告がなされた。
バクルキョイからの報告書の到着後少ししてから、裁判所はハヤルの釈放を決定した。釈放判決の前、救助された被害者はハヤルの家族の訪問を受けた。被害者は告訴を取り下げた。
被害者は治療費用の弁済で十分であると判断した。
マクドナルド爆破事件の実行犯によって車輌に損害を受けた被害者も告訴しなかった。さらに被害者は訴訟を弁護士を通じて追跡することも行わなかった。ハヤルはこの段階で、弁護士の調停によって、ある最高裁判所の判決を論拠として提示した。2001年の最高裁判所の判決では、「だれもが簡単に手に入れることができる材料での個人による爆弾製造は、法律に定める爆弾製造罪に必ずしも抵触するとはいえない」との判断が下されていた。その判決では、「組織的な形でプロとして作業場での爆弾製造は、『爆弾製造罪』に完全に抵触する」とされていた。カヤ・ギュレンチ裁判長、ムザッフェル・サイ裁判官、イッゼト・カバル裁判官で構成されたトラブゾン重罪裁判所は、「告訴取り下げ、最高裁判所の判決、容疑者が裁判審理で見せた礼儀正しい態度、固定の住所があること、また証拠隠滅の可能性がないこと」を検討し、6人が負傷した爆破事件でハヤルの釈放を決定した。
この判決文に、ハヤルに対する監視を継続するような内容は含まれなかった。
■7ヶ月間調査延期
トラブゾン警察は、事件で名前が出たエルハン・トゥンジェルを目撃者として尋問し、彼を「情報員」とみなしたが、告訴の対象からは外したことも訴訟進行に影響を与えた。トゥンジェルがハヤルと共に告発され、彼ら二人と他との関係が調査されたなら、事件を「組織的犯罪」として捜査することが可能となったはずだった。そうなれば、ハヤルの拘留期間も延長されるはずだった。
ハヤルは、拘留無しで行われた審理の結果、6年8ヶ月の刑を宣告された。捜査関係書類は2006年7月最高裁判所に届いた。最高裁判所の検事総長は、書類を2006年7月からこれまでの7ヶ月の間に調査しなかった。判決がこの7ヶ月の間に承認されれば、ハヤルは残りの21ヶ月間の服役のため刑務所に戻らなければならなかったが、この間にディンク氏殺害を組織した。
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( 翻訳者:富田祐子 )
( 記事ID:10042 )