オスマン時代のイラクの様子は?
2007年02月06日付 Yeni Safak 紙

首相府古文書局が編纂した『オスマン時代のイラク』という本は、当時の開発や整備事業のための重要な計画書や記録文書を明らかにしてくれている。この本の石油の章には、油田やこの油田利用に関する報告書も載せられている。

首相府古文書局局長ユスフ・サルナイ助教授は本の「序文」のなかで、この本の主要テーマは「オスマン朝イラク支配初期における統治のあり方を理解するうえで、最も重要な指標のひとつである開発や発展」であることを明らかにしている。

サルナイ氏は、本書でとりあげた文書の大半が、スルタンの個人的財産を管理していたハズィネィ・ハッサ(スルタン私的財宝庫)の文書群からのものであると記している。

■イラクの開発にオスマン朝の足跡
227ページから成るこの本のなかの文書の大部分は、建造物の設計図からなっている。バグダッド、バスラ、モースルというタイトルのもと集められた文書の中では、建設が予定されていた橋、学校、兵舎やダムの建造計画書が重要性を帯びている。

こうした計画には地域ごとの地理的特性によって相違点がみられ、計画書の一部に外国人の署名があることが目を引く。

バグダッド州の1915年の地図から、ムスルに現存する「工業学校」の1902年付けの計画書まで、今日とのかかわりを確かなものにするような文書が、本の中には含まれている。

当時の運輸政策についてヒントとなりうる1902年3月18日付けの合意書は、アナトリアとイラク地域の開発と商業発展の目的でイスタンブル-バグダッド間の鉄道敷設のため、アナトリア鉄道会社に認められた99年間の特権を文書化したものである。

ムスルの1907年度市街地計画書には、他の地域の計画書にはない情報枠が目をひく。たとえば市街地中心の登録人口がおよそ6万9千人であることを示した表には、ムスルでの商業施設や公共施設そして宗教的施設の数も記されている。表によると、ムスルにはその当時、56のモスク、20の教会と1つの総主教府が存在していた。

『オスマン時代のイラク』のもう一つの素晴らしさは、文書や定期刊行物から引用した写真である。この本ではイラクの今日の写真とオスマン時代の定期刊行物に掲載された写真を一緒に用いており、そうすることでオスマン帝国の足跡を追うことを試みている。1908年の第一期オスマン議会議員を写したアルバムには、バグダッド、バスラ、ムスル選出の議員の写真が掲載されている。

■石油の豊かさも報告書に記録
オスマン政府がこの地域に送った行政官らが、油田の場所を記録しつつスルタンに提出した報告書が、「石油」の章の中に集められている。地図のひとつからは、1899年、ムスルやバグダッド地域のチグリス-ユーフラテス川流域の65の地点で油田調査が行われたことがわかる。スルタンに提出された1901年10月22日付けの報告書の最後の部分では、この地域の石油資源の重要性が注目され、「チグリス-ユーフラテス流域に存在する油田は、世界で最も多くの石油を産出するひとつとなる」と述べられている。

■研究者のために有用な「オスマン時代の地名」
首相府古文書局の『オスマン時代の地名』という本も、トルコ共和国外にあるかつてのオスマン支配地域の行政単位の名前が、オスマン帝国崩壊後、変化したために生じた問題を解決するため編纂されたものだ。

首相府古文書局の職員のターヒル・セゼン氏が作成した本には、オスマン領内におかれた行政単位の現在の名称と状況も記されている。

この本では、ラテンアルファベット表記された地名がアルファベット順に並べられており、行政単位のアラビア文字での名称、歴史的古称、さらにはこの古称にもとづきそれらが属する上位行政単位についても述べられている。

この本には行政単位でないが、戦略的に重要と見なされる地域の名もあわせて述べられている。

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( 翻訳者:栗林尚美 )
( 記事ID:10104 )