子供の頃よく耳にされたことでしょう。歌われた方もいらっしゃるかもしれません。「雨が降っているよ。溢れる水が流れているよ。アラブ人の少女が窓から見ているよ」という歌を。さて、この「アラブ人の少女」とは、一体誰を指しているのでしょうか?少なくとも、そうしたひとりが誰であるかはおわかりですよね。この話は1880年代のケニアで始まります。みなさんもよくご存知の最初の伝説の人、イブラヒムです。
もちろんその頃アフリカでの名前は違ったのですが、我々の間では「イブラヒム」として知られています。彼はケニアで「テテ・ヌリエ」と再婚しています。前妻との間にできたアフメトという息子もいます。
「テテ・ヌリエ」は夫の家に嫁ぐ際、妹のシャディエとシェムディエ、弟のアリも一緒に連れて来ました。
海賊たちは、ケニアの「奴隷海岸」を襲撃し、誰かまわず無差別に船に詰め込みました。長く苦しい旅を越えて辿り着いたクレタ島で、イブラヒム一家はオスマンの裕福な一家に売られます。ここで、イブラヒムとヌリエの間の長女エルマスが生まれます。
しかし、しばらくしてイブラヒムは亡くなってしまいます。主人は、未亡人になってしまった妻の「テテ・ヌリエ」と彼女の義理の息子にあたるアフメトを結婚させます。
アフメトは嫌々ながら義理の母親ヌリエと結婚します。奴隷は何であれ主人の言いなりにならなければいけないのです。
2人の長女ゼイネプが1912年に生まれます。3年後に2人目が生まれ、理由はともあれ「テテ」は次女に自分と同じ「ヌリエ」という名前をつけます。
1918年、「テテ・ヌリエ」が48歳のときに、主人は彼女を売ることを決意します。アフメトは妻を、エルマス、ゼイネプ、ヌリエは母親を失ってしまいます。
泣き叫んで懇願しても、主人の決意は変わりませんでした。「テテ・ヌリエ」は、イスタンブルに住み、宮殿の中にまで出入りできた裕福な一家に売られました。「テテ」は売られていくときに、長女のエルマスだけを一緒に連れて行くことができました。
父親のイブラヒムが亡くなって「義理の母」であるヌリエと結婚させられたアフメトに、主人は新しい妻を見つけます。シャディエです。はい、「テテ・ヌリエ」の妹です。アフメトは、「お母さん」と呼んでいたヌリエと結婚させられた後、さらに「シャディエさん」と呼んでいた妻の妹のシャディエと結婚させられるのです。
アフメトと「テテ」との間にできた次女のヌリエは、9歳のときクレタ島の外国籍の一家に売られます。しばらくしてその一家はクレタ島を離れて「小さなヌリエ」を連れてイスタンブルに移住します。長い間家族はヌリエとは音信不通となります。
■住民交換で解放される
トルコとギリシャの間で住民交換協定が結ばれると、主人はアフメトに「君と家族を解放するよ。好きなところに行っていい。でも、私は(トルコのエーゲ地域の)アイワルックかイズミルあたりに行ったらいいと思うがね。ここから出て行く人のほとんどがあのあたりに移住している。あそこなら慣れない環境で困るということもないだろう」と言いました。
再び長く困難な船旅に出ることになりました。アフメトとシャディエの腕の中には生後40日の女の子がいました。まだ名前も付けられていませんでした。アイワルックに到着するとアフメトは、ムスタファ・ケマルへの憧れから、娘に「ケマレ」と名づけます。
こうしてアイワルックで「黒人」と言ってくる近所の人たちにイライラしても、冷静に「私たちは黒人ではありません。アラブ人です。でも少し肌の色が黒いアラブ人なのです。」と応える「アラブ人の少女ケマレ」は、「奴隷/ケニア、クレタ島、イスタンブル海岸の伝記」という本の著者であるムスタファ・オルパックの母親です。
本記者が彼と知り合ったとき、ムスタファは、連絡可能なすべての人との接触を試み、話しをし、相談し、調べられることはすべて調べ、最終的に家族が経験した、信じがたいこの話を、一冊の本にしていました。
ムスタファの家族が経験したドラマは、奴隷身分から解放されアイワルックに移住したところでは終わりませんでした。一家は、アイワルックで経済的に困難な状況に陥ります。結局、ムスタファの祖父にあたるアフメトは、その時期に、アイワルックに住んでいて仕事の都合でイスタンブルに引っ越してしまったある一家に、長女のゼイネプを「養子」つまり奉公人として引渡します。ムスタファの、奴隷出身の家族の話しの続きを続けよう。
1940年代初め、ある家族が(マルマラ海にある)ビュユクアダの豪邸に客として呼ばれます。訪問時には「黒い」使用人を連れて行きます。訪問先の豪邸にも、「黒い」使用人がいます。
■ 姉妹と判明した二人の使用人
二人の「黒人」は何時間も働き続けます。主人の要望を果たすため絶えず働き続けます。ついには疲れ果ててしまいました。休むことのできる唯一の場所は台所。二人はこっそりと話し始めます。たがいに気持ちが高ぶってきます。ついには起こるべきことが起こります。話し合う中、とても顕著な事実が明らかになります。二人は幼少の頃に離ればなれになった姉妹だと知ったのです。ひとりは、クレタ島で外国籍の家族に売られたヌリエ、もうひとりは、アイワルックで「養子」に出されたゼイネプだったのです。
二人の再会の叫び声に主人たちが台所に駆けつけると、このドラマチックな話しを知ります。すぐにその場で二人の姉妹を解放します。
二人は決めごとをします。まず今後決して離れないということ。ついで「テテ・ヌリエ」を呼び寄せることです。母テテ・ヌリエは長女エルマスを連れてやってきました。もはや全世界が自分たちのもののような幸せな気分になりました。
祖父アフメト、おばたちや祖母の語り聞かせるお話しを聞いた、アイワルックで石工業を営むムスタファ・オルパクは、オスマン帝国期の奴隷制について説明するのを、直接の、つまり家族の話しから始めようと決めました。
■ 奴隷制を調べる第三世代
「私は家族の第三世代にあたります。祖父と祖母は奴隷でした。おばたちも人生の重要な時期を異なる種類の「奴隷」として過ごしました。つまり奉公人として生きたのです。第三世代の私たちは自由な個人として生まれました。第一世代は実際に奴隷制を経験した世代です。第二世代はそれを拒み、忘れたい(世代です)…。第三世代の重要性はここに明らかとなります。なぜならこの世代はそれを調べる世代なのです。有名なアメリカのドラマ・シリーズ『ルーツ』のシナリオを書いたのも第三世代でした。」
最初の著作『アラブ人の少女ケマレ』を2002年に、第二作『奴隷/ケニア、クレタ島、イスタンブル海岸の伝記』を2003年に著した。オルパク氏の著作はフランス語に翻訳された。彼の目的は、トルコで凡そ300万人暮らすと推測されるアフリカ出身者を結集することだ。
■ アフリカ出身者協会
この夢のため長年努めた。ついに昨年アイワルックでアフリカ出身者連帯・文化協会を設立した。協会設立の際、「これは共和国史上初」と氏は語った。
大半がエーゲ地域に暮らす何百人ものアフリカ出身者が協会設立式に参加した。近くトルバル、ダラマン、ハスキョイ、イズミルのようなアフリカ出身者が暮らす場所に支部や代表部を設ける予定だ。氏は現在、2000人と接触したと語る。また協会は口承採集作業をさえ始めた。
「居住地区で、まず年配者と接見することを始めました。口承採集作業の中、非常に興味深い出来事に出くわしています。こうしたことは本にも書かれていないし、歴史家も知りません。オスマン帝国領へのアフリカ出身者の到来、その社会生活は秘密とされてきました。アナトリアの人々が知らない、多くの面が明らかとなります。」
ムスタファ・オルパク氏が始めたこうした活動は、今トルコ・テレビ・ラジオ協会(TRT)によりドキュメンタリーとされた。「アラブ人の少女が窓から見ているよ / オスマン帝国での奴隷制」とういう作品の制作者、監督であるギュル・ムンヤンは、制作スタッフとともにアイワルック、クレタ島、イズミル、ビュユクアダ、イスラエルで撮影をおこなった。オルパク氏も作品で「ナレター」役をつとめている。
今晩2:05にTRT2で放映される、上述した活動は、「公式の歴史」がおよそ見過ごしてきたオスマン帝国での奴隷制(を描いた)初のドキュメンタリーとなる意味で、重要である。
つまり、この地には近い将来に出会う「アラブ人の少女」もいるようだ。
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( 翻訳者:田辺朋子 )
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