■ 『パラダイス・ナウ』のハーニー・アブーアサド監督に直接インタビュー
2007年2月14日於東京・渋谷アップリンク
【山本薫 中東イスラーム研究教育プロジェクト研究員】
3月10日より東京で作品が公開されるのに先立ち、パレスチナ人映画監督ハーニー・アブーアサド氏が来日され、本プロジェクトの山本薫研究員がアラビア語で直接インタビューを行う機会を与えられました。今回公開される『パラダイス・ナウ』は、自爆攻撃へと向かうヨルダン川西岸地区の町ナブルスの青年二人の48時間を描くスリリングな作品で、各国の映画祭で高い評価をうけ、アカデミー賞外国語映画部門にもノミネートされました。「自爆テロを支持する映画だ」としてノミネートから外すよう求める署名運動が起こったといういわくつきですが、実際には娯楽作品としての完成度の高さと、自爆の是非などといった次元をはるかに越える哲学性を兼ね備えた作品です。映画の内容や上映予定につきましては、
映画の公式HPをご覧下さい。
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Q まずは監督自身について、少し質問させて下さい。監督は1961年、イスラエル領内のナザレに生まれ、高校卒業後にオランダに渡ったとのことですから、同じくナザレに1960年に生まれたエリアス・スレイマン監督[注:『D.I.』で02年カンヌ国際映画祭審査員賞ほか多数の賞を獲得]と同世代ということになりますね。お二人の前にはやはりナザレからミシェル・クレイフィ監督[注:1950年生まれ。87年カンヌ国際映画祭批評家連盟賞を受賞した『ガリレアの婚礼』など作品多数]が出ています。このナザレと映画との親密な関係の秘密は何なのでしょう。また、監督ご自身と映画との最初の出会いはどのようなものでしたか。
A 答えるのが難しい質問ですが、これまでにも同じようなことを尋ねられたことがあります。どれも絶対的とは言えませんが、いくつかの答えが考えられます。
ナザレにはかつて「シネマ・ナザレ」と「シネマ・ディヤナ」という2軒の映画館があり、私はかなり幼い時に映画と出会いました。初めて映画館に入ったのは7歳、あるいは5~6歳の頃だったかと思います。その頃ナザレにはまだテレビも無くて、初めての映像体験は私に大きなショックと影響を与えました。
Q 当時、家庭にはまだテレビがなかったんですか?
A 60年代にはありませんでしたね。私が初めてテレビを見たのは8歳か9歳頃のことだったと思いますよ。そういうわけで、幼い頃に映画と出会ったことで、私は映画を愛するようになったのだと思います。
もうひとつの理由として、ナザレという町の性格が挙げられます。ナザレは「村」と言っていい規模の場であるにもかかわらず、「大都市(メトロポール)」のメンタリティーを備えています。またナザレはキリストが育った地としての大きなイメージと同時に、キリスト教とイスラムの共生の歴史を持っています。映画もまた「産業」と「芸術」という矛盾する要素を抱え込んでおり、また「村」であるナザレが「大都市(メトロポール)」という自意識を持っているのと同じように、映画は自身を最も重要な「産業」であり「芸術」であるという強い自意識を持っています。映画の持つショーヴィニズム(排外的な自己愛)は恐ろしいほどですよ。映画の撮影クルーは、映画を撮るとなったら周りに配慮なんてしません。道路は封鎖するし、あなたの家を撮りたいと思ったら家を占拠してしまいます。映画を撮るということが世界で一番重要なことだと思ってるんです。私たちはナザレで「村人でありながら都会人」というメンタリティーの中で育ちました。映画にも同じようなところがありますね。
Q 続けて新作『パラダイス・ナウ』についてお聞かせください。この映画では「殉教作戦」〔注:「自爆テロ」のことをアラビア語メディアではこう表現することが多い〕の部分に注目が集中しがちですが、あなたはこの映画でパレスチナ側のコラボレーター(イスラエルへの協力者・内通者)の存在というもうひとつの複雑な問題にも光を当てていますね。「殉教作戦」と「コラボレーター」という二つのテーマを結び付けようと考えたのはなぜですか。
A おっしゃる通り、「殉教作戦」、あるいは「自殺作戦」、あるいはまた「敵を道連れにした自己の殺害」と言ってもいいですが、これは複雑で、人々の目下の関心を大いに掻き立てるテーマです。しかし私は映画が今、現実に起きている物語を超えて、世界的な悲劇の域に達することを望んでいます。映画のテーマが自身の枠組みを超えて、普遍的な、人間存在の悲劇として永遠の歴史に刻まれることが私の目指したところでした。
私が目指した悲劇とは何かというと、父親が家族を守るために敵に協力するということ。そこには「弱さ」があります。父親が家族を占領から守るために占領に協力する。そしてその息子は家族を「恥辱」から守るために、敵を道連れにした自己の殺害を選びます。
Q 主人公のサイードには父親がかつてイスラエル占領軍のコラボレーターとなり、パレスチナ武装勢力によって処刑された、という過去がありますね。彼にとってこの過去はコンプレックスとなっている。もう一人の主人公である友人のハーレドの場合、彼の父親はコラボレーターではありませんでしたが、占領軍に「どちらの足を残すか選べ」と問われ、片方の足を失いました。これについてハーレドは「俺だったら両足を失っても屈服しない」と言っています。つまり二人にとって父親は「弱さ」を体現する存在であり、二人ともその弱さを「恥辱」ととらえ、その恥辱をすすぐために自爆に向かった、と理解していいのでしょうか。
A それもひとつの解釈ですね。私は複数の読みを可能にするために、この映画を複雑に構築しようと試みました。あなたの読解は複数の中のひとつであり、私にとって喜ばしい読解といえます。たしかに社会を守るために父親が示した「弱さ」が次の世代を打ち砕き、極端な「祖国防衛」に向かわせるのですから。
また別の読み方をすれば、占領というものが弱さを利用しています。弱さは誰にでもあるものです。コラボレーターとなる誰しもが弱さを抱えています。これは大変に汚い犯罪だと思います。ある人をその人自身とその同胞たちの利益に反する行為に追いやるというのは、人を殺すよりも卑劣じゃないでしょうか。これもまた悲劇です。コラボレーターは自分自身だけでなく、占領下に置かれた人間を破壊します。占領下の人間もまた人間の破壊を望むようになり、結局は自身を爆破する。こういう読みも可能でしょう。
私は映画のテーマについてたった一つのコンセプトだけを思い描いているわけではありません。
Q 主人公のサイードが武装組織のリーダーであるアブー・カレムの前で「占領は父の弱さを利用した」と語るシーンがありますね。しかし現実に彼の父親の弱さを断罪し、殺したのはパレスチナ武装組織の側だった。ここで提起されている問題はひじょうに複雑ですね。
A もちろんです。これこそ人間性の悲劇です。私はアクチュアルな問題により深い次元を加えることで、歴史に刻み込みたいと思いました。私が考えるに、今日パレスチナ問題を擁護するということは、歴史の存在を擁護することだからです。パレスチナの知識人や芸術家たちは、自身の生きる現実を世界レベルでの人間の悲劇に移し変えることで、シオニズム計画の成功を妨げることに成功してきました。シオニズムの計画というのは民族浄化に他なりません。占領と言うのはただ単に軍隊を送り込んで、入植して、といったことではありません。シオニズムの計画は占領にあるのではなく、民族浄化にあるのです。土地の元々の住民は、物質的に損害をこうむるだけではありません。人間性を損なわれるのです。
人類は6000年の昔から弱肉強食の法則に抗ってきました。われわれは屈服するわけにいかないのです。屈服すれば、個人としてはこの日本でのようなより良い生活を享受できるかもしれない。しかし人間性という概念は私にとって大変重要です。もしかしたら弱肉強食という自然の論理のほうが正しいのかもしれない。しかし人類は進歩し、「正義」というものを生み出した。両者のせめぎあいの中でわれわれが屈服したならば、テロでも殺人でも何でもありになってしまう。強者が弱者をどうとでもできるというのであれば、正義は、法は、どこにいってしまうのか。パレスチナ人が屈服しないということは、「弱肉強食の掟よりも正義を」という、人類の進歩の度合いの指標なのです。
Q この映画のシナリオはたいへん緻密に構成されていると感じました。ひとつ確認したいのですが、浄水フィルターの話が繰り返し出てきますね。これはコラボレーターの「浄化/処刑」や恥辱の「浄化/雪辱」のメタファーと理解できるのでしょうか。
A シナリオは全体が連動するように書かれています。たくさんの問いを開き、それを閉じることはしません。答えは決して与えない。あらゆる点について観客自身に自問させるのです。この映画には、われわれの実存同様、大小さまざまな概念が散りばめられています。水や食べ物は、人間にとっての自然のサイクルを表しています。人間は汚しては浄化しようとします。
Q 最初の作戦に失敗してナブルスに戻るサイードを乗せたタクシー運転手は「水の汚染は占領のせいだ」と語りますね。
A 繰り返しますが、シオニズムの目指すところは民族浄化です。パレスチナ人の数をこの地から減らし、ユダヤ人だけの国家にしようとする。しかしそんなことは不可能です。パレスチナ人の飲み水を汚染することは生殖に悪影響を与えますよね? これはシオニズムの目的が単なる占領ではなく民族浄化にあることの証拠です。彼らにとっての浄化はわれわれにとっては死を意味します。汚れた水が蒸発して雨になりまた大地に戻ってくるという、自然のサイクルとも重なります。
Q サイードの父親のようなコラボレーターを処刑するというパレスチナの側にも、同じような「浄化」のメンタリティーが見受けられますよね。社会の中の汚染されたものを浄化するという。
A その通りです。それこそ私が意図したものです。自然のサイクルには常に「浄化」がつきものです。イスラエルは「浄化」を試みます。しかしそれはわれわれにとっては「汚染」に他なりません。同様にパレスチナ側もコラボレーターという汚染を浄化しようとしますが、それ自体がわれわれの汚れなのです。
Q つまりそうした悲劇というのはイスラエルの側だけ、あるいはパレスチナの側だけにあるのではない、普遍的な人間性の悲劇であると?
A そうです。どちらかが正しくて、どちらかが誤っているということではないのです。「浄化」は自然の論理です。人間性はつねに弱肉強食の論理とは戦わなければなりません。
Q 「弱さ」もまたこの映画の大きなテーマですね。特にアラブの文化では「男らしさ」が重視される傾向があります。この映画の場合、サイードが恋をするスーハという女性が暴力以外にも抵抗の手段はある、と主張するのに対し、青年たちの方は納得しようとしません。両者の思考の対比というのを意図されたわけですか。
A もちろんです。悲劇は論争を生むものです。これが正しくてこれが間違っているなどとは言いません。観客や読者にとって論争は、思考を開くものです。監督として私はあなたの問いに答えはしますが、だからといってあなたは考えなくていいわけではありません。論争において断定はあってはならないのです。どちらに理があるかの判定はありません。
たとえばスーハはハーレドに、「そんな天国なんてのは、あんたの頭の中にしかないのよ」と言います。それに対しハーレドは、「この世の地獄より、頭の中の天国を選ぶさ」と応じます。ひじょうに理知的な答えです。彼は決して不可知の世界に浸っているわけではないのです。世俗の論理は宗教の論理を不可知だとして排斥する傾向にありますが、ハーレドは天国という問題について、「この世での人生が地獄である以上、頭の中の天国を自分は必要としているんだ」ときわめて理知的に応じているのです。
Q それではあなたの映画はたいへん成功したことになりますね。少なくとも私はあなたの映画によって大きな問いをいくつも投げかけられました。
A そうだと嬉しいんですが! 私の狙いはとにかく、ディスカッションと言うものは断定を廃し、論争を生み出さねばならない、ということなのです。「強さ」と「弱さ」、あるいは浄化するか浄化に抗うか、あるいはまた浄化と汚染、コラボレーターと恥辱など、様々な論争が開かれなければなりません。だからこその悲劇なのです。
なぜ悲劇という映画言語を用いるのか。今の世の中で支配的な言説と言うのは西洋近代の言説です。エドワード・サイードが示したように、西洋はあらゆる人間集団の産物を自分ひとりのものだと主張し、相手を消費の対象とみなします。現代の真剣な知的活動というものは、何かを構想するに際し、西洋の論理に対処しないわけにはいきません。
今日の大衆的な映画において支配的な言語は悲劇です。現代の映画は悲劇の特定の「公式」を発展させてきました。その公式に則らなければ一般の観客には悲劇が理解できません。公式を嫌えば、あなたの作品は理解されることなく周縁に追いやられる。公式に則ったら則ったで、支配的だとの烙印を押される。これ自身悲劇的ですが。
私は幅広い観客層が物語に入り込めるようにするために、パレスチナのあるひとつの経験を世界的な公式に翻訳することを試みたのです。公式に則ることは支配的な政治、世界を消費の対象に変換する政治を受け入れることになる。しかし個人的な言語で話しても誰にも理解されません! 何と言う悲劇でしょう。我々に出来ることは、この公式の構造に変更を加えることです。
たとえば、現代西洋の、あるいはアメリカの悲劇では、主人公は無垢な人物です。私はそこにパレスチナの、ナブルスの青年サイードを当てはめました。彼の容姿や行動を含めた人物造形は、西洋の映画言語に従っていますが、構造は変化しています。
また私はスリラーというジャンルも応用しました。スリラーというのは音楽やサスペンスを常に必要とする、極めて人工的なジャンルです。私はここでも変化を加えています。たとえばこの映画では、音楽を一切使っていません。フィクションの公式を現実に近づけるためです。現実には音楽はないですからね。この映画はサスペンスの連続です。でも音楽はないのです。ドキュメンタリーの映像言語への転換を行っているのです。
こうして創造的な形で構造に変更を加えることで、悲劇が支配的な形式を取りすぎる傾向を軽減するよう意図したいと思いました。そうすることで観客を、飽きることなく物語に引き込みつつ、こちらから多くの問いを投げかけ、しかも決定的な答えは与えない、というようにしたかったのです。
Q 最後の質問です。この映画をパレスチナやイスラエル国内でも上映されたのですか?
A もちろんです。シリアの首都ダマスカスの市場では、通りでダビング・ビデオが売られていました。「オスカーをとった映画だ」って言うから、「とってないよ!」って言ってやりましたよ。
Q パレスチナ人観客の反応はいかがでしたか。
A この映画は大衆的な映画ですからね。これまでのパレスチナ映画は大衆的な観客にとっては退屈でした。もちろん私自身は、エリアス・スレイマンのようなナルシスティックな映画も、クレイフィのような詩的な映画も大好きですよ。とても美しいと思います。でも大衆が評価する映画は違うんです。彼らは『パラダイス・ナウ』を評価してくれました。惹きつけられる映画ですからね。
他方で、映画を政治綱領としてしか見ようとしない人たちもいます。そういう人たちの評価は割れました。中にはこの映画を西洋がどう見るか、そして自分たちパレスチナ人についてのイメージをどう変えるか、ということにしか関心のない人たちもいます。私はばかげた話だと思います。無数の映画が世の中にある中で、一本の映画で西洋のパレスチナ観を変えるなんて土台無理です。最初から負けが決まっている戦いです。こうした人たちは、この映画が西洋の東洋に対する嫌悪感を増すのではないかと言うのです。
しかし批評家達はともかく、一般の人々は初めてパレスチナの「映画」というものに触れた、と感じてくれました。政治問題うんぬんではなく、物語としての「映画」というものに。
Q サイードとハーレドという二人の主人公の人物造形は見事でした。私はまるで昔から二人のことを知っているような気さえしました。
A 実はその点でも批判があったんです。私は一般の観衆にとって身近な存在となるよう、二人を描きました。観衆が身近に感じるのは、自分の分身のような存在です。批評家の中には、私が安っぽい公式を使って人物を造形し、困難に対処していくお決まりのパターンを踏襲していると批判する人もいました。たしかに公式は、変更を加えなくては、安っぽいものになってしまいます。
Q 私はあなたがサスペンスやラブロマンス、親しみやすい人物造形といった現代の支配的な映画言語を完璧に我が物としつつ、それを通して大きな哲学的問いを投げかけているということに、ひじょうに感銘を覚えました。あなたのような創造力のあるパレスチナの芸術家にお会いできて、ほんとうに嬉しく思います。ありがとうございました。(完)
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( 翻訳者:山本薫 )
( 記事ID:10273 )