アタテュルク文化センターではなく、それを取り壊そうとする考え方を破壊すべき
2007年03月13日付 Radikal 紙

欧州文化首都に選ばれた都市として、イスタンブルがアタテュルク文化センターのような組織を廃止するのではなく、発展させ舵取りをするためには、共同出資の独立した文化組織を立ち上げる必要がある。

アタテュルク文化センター(AKM)に関する決定を正当化する理由について、アティッラ・コチ文化観光大臣が次のように説明している。「我々が計算した結果、古い建物の修理は新たな建物を建てるより高くつきます。このためAKMを取り壊し、横の駐車場も利用して2倍の大きさの新たな建物を建てます。この計画に反対すること、AKMが取り壊されないようにと主張することそれこそが、率直に申し上げましょう、復古的な(後ろ向きの)考え方なのです。」
大臣は正しい。この種の問題は決まってしまってから(過去をほじくりかえして)議論しないものだ。
しかし、大臣の説明には2つの矛盾点がある。

まず1つ目はこの問題が、AKMの物理的存在について議論されているとともに、実はもうひとつの問題、すなわち経営問題を指摘していることだ。そして2つ目は、建築のようなクリエイティヴな事業に対して公的機関が担うべき役割についてだ。

大臣は「計算したところ、新規に建設するほうが安いのです。」と言う。しかし関係者なら誰でも知っていることだが、文化センターをはじめ、公募される象徴的建築群の建設費用は、具体的な建築プロジェクトが立案される前に正確に計算することはできない。文化センター、もしくはこの種の重要建造物の建築費を、設計図がないまま見積もるのは不可能なのだ。建築費を前もって知っていると主張することは、公募するということをはじめからまじめに考えていないということだ。たとえば、ヨーン・ウッツォンは、シドニーのシンボルとなった帆船によく似た建物を建設した。この建物は、通常の建物の少なくとも5倍の建設費がかかる可能性がある。今、誰もが興味をいだいていることは、大臣はこのプロジェクトを夢ででも見てそれで建設費を計算したのだろうか、ということだ。初期設計案さえもない建物の経費はどうやって計算されるのだろうか。文化センターは、(以前にも多く建設されている)軍人用宿舎ではないのだから、建設費を前もって計算することは不可能だ。

■建設費はどのように計算されるのか

 「現在ある建造物はもともと経済的寿命をまっとうしています。そのために取り壊す必要があるのです。」という主張も同じ点で矛盾している。建築プロジェクトを入手するために公募する必要があるのと同様に、既存の建築がどうなっていくのか、またはどうやって変化させていくのかを提示するためにも建築的分析が必要なはずだ。新しい建築をたてるために必要な手順があるのであれば、既存の重要歴史的建造物に関する決定についても、やはり専門的な方法で決められることが期待されるのだ。つまりこの規模の重要建造物の建築的意義をもう一度評価するためにも建築的な分析が必要なのだ。とくにこの建造物がAKMのような現代建築史上、重要な建造物のひとつであるのであるなら尚更だ。こういった言葉を聞くと、人は次のように言いたくなる。

イスタンブルにおいて問答無用になんとしても取り壊す必要がある、または建て直す必要がある建物を探すのであれば、それはAKMではない。同様の経営上の問題をかかえ、長年かんばしくない状態の複数の文化センターが瓦礫の山になる必要がある。もちろんAKMをそのままの状態で保存すること、取り壊しも視野に入れた再建、修理、増改築の実施など、AKMについてすべてのアプローチを議論し、検討することも可能だ。

決定権を独占している者たちの意見に最初から復古的であるとかまたは進歩的であるといったレッテルをはることや、ある意見や考え方に対してあらかじめ担保を設けることは正しいことではない。なぜならAKMがどのように改変されるのか、どんな建築とされていくのかという問題は、都市において文化がどのように管理され、公的機関がどのような役割を担うのかという大変重要な問題である。

今日、誰もが知っていることだが、AKMの問題は、建物ではなく、運営モデルが古くなってしまったことにある。
スュトリュジェやアヤザーで建設され、すぐに瓦礫へと変貌した文化センターの状況が、この問題を指摘する二つの重要な事例である。(現代美術館に改装されていたのに、見本市や手作り品市になってしまったエユプにあるフェスハーネも同様である。) 文化を、都市が変容していく中で最も重要な要素とみなす昨今、この問題がトルコでただ単に民営化という視点でしかとりあげられないということは、大きな矛盾と考えられるべきである。公的機関は所有しているものを出来るだけ早く民営化し、文化に対して投資をする代わりに、利益を得ることを目指している。AKMを変えていくことを単なる建設プロジェクトと考えている原因もここにある。

■古くなってしまった運営モデル

 民間セクターは貢献可能であるし、文化センターを経営しAKMを支えることもできるだろう。しかし金銭的利益のない芸術事業や都市の展望をひろげていく事業に対し、常に参入できるわけではない。この種の建物を見本市や会議場として経営し、利潤を得ようともくろむこともできるだろう。考古学遺跡でも見られることだが、我々がよく目の当たりにする利益追求型の狭い視点で立てられた目標は、都市にとって災いとなる可能性がある。公的機関であれは、利益を期待することなく文化の変容の問題に対しても別の観点から取り組むことができる。時には、文化遺産や建築作品を保護するために赤字を覚悟することも可能だ。イスタンブルでは多くのアーティストが活動するための資金や場所を見つけられずにいる。その一方で現在、イスタンブルでもっとも重要な公共空間が駐車場、ビジネスセンター、会議・見本市場として利用されることは都市として問題視されるべきである。都市変容の過程で利益が優先されること、すなわち文化・芸術といったものの優先度が低くされることは大きな問題である。この問題の代償は、文化に関連する組織だけではなく、都市全体が被ることになる。文化的貧困は空腹のように簡単には感じることができないが、少なくとも空腹と同じくらい影響する。考えてもみましょう、パリのポンピドゥー・センターが単純な商業施設へと陥ってしまう、例えば会議場とされることは、パリに最も大きな打撃にならないだろうか。

 つまりAKMを「取り壊すべきか否か」という議論から明らかになった重大問題が存在する。そして我々はこの問題を議論しなければならないのだ。公的機関は文化センターや博物館をうまく経営することができず、他分野にも類例があるとおり、民間セクターがこの分野に投資することを求めている。しかし欧州文化首都に選出された都市、そして選ばれていない都市でも行われているように、イスタンブルでもこの種の組織を充実させ経営していくための共同出資の文化に関連する組織をつくることが不可欠である。もしこの点で進展を望むのであれば、公的機関は利益追求型の組織との関係構築を考える前に、独立した文化関連組織と関係を構築すべきである。そしてAKM、博物館、そしてイスタンブルでの様々な文化的アクティヴィティーは、文化を専門とする人々の世界に開かれるべきだ。

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( 翻訳者:岩根匡宏 )
( 記事ID:10393 )