解説:住宅ローンで家を買うことはイスラームで許されるか?
2007年03月22日付 Yeni Safak 紙
利息(faiz)が成立するには2つの条件がある。それは時間(zaman)と同一性(cinsiyet)である。このうちの時間とは、期間によって得られた、品物の代価に上乗せされる“期間による差額”のことを指すが、これは利子であり宗教的に認められない。しかしこの差額を単なる“期間による差額”として、分割払いによる購入に適用するならば、その場合に得られた差額は利子とはならない。
まず「利息」とは何だろうか?これをご説明しよう。利息とは、増加、余剰、追加という意味である。コーランでいう「ribâ」のことである。コーランでは次のように書かれている:「利息を貪る者は、悪魔にとりつかれて倒れたものがするような起き方しか出来ないであろう。それはかれらが「商売は利息をとるようなものだ」と言うからである。しかしアッラーは、商売を許し、利息(高利)を禁じておられる。それで主から訓戒が下った後、止める者は、過去のことは許されよう。かれのことは、アッラー(の御手の中)にある。だが(その非を)繰り返す者は、業火の住人で、かれらは永遠にその中に住むのである」(雌牛章275※)。
オスマン朝の末期になって銀行業が帝国内の国々にも入ってくると、学者たちはribâの代わりに増加、増殖を意味するfaizという言葉を使った。
今日、アラブ人もribâの代わりにfayda/fâideという言葉を使っている。使う言葉を変えることの目的は、意識からribâを遠ざけることである。またribâに合法性を獲得させようという努力が払われているようにも感じられる。しかし次第に言葉を変えても無駄であることが分かった。なぜなら一般の人々はこれらの言葉の意味をとてもよく理解していたからだ。この問題に答えを出す前に、利息と呼ばれるものが成立するために必要な要件は何なのか、それをご説明しよう。その後でこの問題に移ろう。
■ローンで必要な物を手に入れることはできるか?
コーランがribâを禁止すると、当時のアラブ人たちは「それなら物の売り買いもribâである。お金との交換で物を買うか、お金を渡してその差額をお金で受け取るか(の違い)なのだから。何の違いがあるというのか、全て物の売り買いだ」と言った。それに対しアッラーは「物の売り買いは許されるが、利息は許されない」とお答えになった。利息について今でも非常に多くの人々が同じ理屈を使っている。しかしながら、物の売り買いでは双方の同意もあれば満足もある。売り手は物を確保することにより買い手にサービスを提供したのだから。買い手も必要な物を見つけて買ったために満足している。しかしお金を貸して一定期間の後に返してもらう関係にある2人のうち、1人は潜在的に損をしている。なぜなら時間は通常、借り手にとってマイナスに働くからだ。最も重要なことは、物の売り買いにおいては利息の最も重要な要件である同一性が実現されなかったということである。
例えばトルコリラで何らかの物を買うことは物の売り買いである。この手続きにおいて―売り手が差額(利潤)を得ようとも―利息は生じない。なぜなら渡されたお金と買われた物の性質は同じではないからだ。物を物と交換したとき性質が同じでなければ、受け取られた余剰は利息ではない。小麦を小麦で清算して受け取られた余剰は利息であるが、小麦と大麦との交換では利息は発生しない。なぜなら交換する物の種類が異なるからである。さらに同じ種類の物であっても品質に違いがあれば余剰は利息だとみなされない。
トルコの通貨と外国の通貨を交換したとき、得られた差額は利息ではない。なぜならどの通貨も種類が異なると考えられるからだ。
宗教上の必要悪(zaruret)の問題は社会全体のものではなく、個人に帰するものである。一方、生きていく上で必要な物事(ihtiyaç)の問題は社会全体に帰する。家を所有することは必要悪ではなく必要なこと、中でも必須の事柄である。しかし必要悪とはみなされない。なぜなら必要悪は人にとって生命上の危険が含まれる状況で生じるからだ。しかし実際は、ある人がかなり困難な状況に陥ることにより、家賃においても生じうる。
この点で我々が家を手に入れようとしている人に薦められることは、月賦払いをすることである。家を買おうとしている人は、家を月賦で買うと、支払期間に伴う差額に月賦という名前が付いているため利息にはならないのである。
■「利息」と「月賦」の違い
月賦と利息は次の点で異なる。利息の生じる取引において、潜在的に損害を受けるのは通常利息付きでお金を借りる人々である。月賦はといえば、両方の側が同じだけリスクを負担する。そのため両者とも満足である。なぜなら物を買う側はそれを使うことにより便益を得るからである。売る側も商品の価値よりも多くの余剰を得るため満足する。宗教ではどう名付けるかも重要である。ある取引を利息といえばそれは利息になる。しかしそれに「支払期間に伴う差額、または利潤率」といえばそれは利息には当たらない。支払期間に伴う差額の生じる形で買われた物において、支払期間に関する合意は注意を払って行われなければならない。買い手は月賦を払えなかった場合どのようなルートをたどるのか、はっきりと知らされなければならない。
国はこのスキームを整備する必要がある。国は銀行に対し、住宅をまず銀行自らが買った後で月賦により(消費者に)販売するようにしなければならない。また月賦を払わない場合、銀行は家を他の人に売るか、賃貸に出して収益を得る。この場合、買い手も売り手も損害を被らない。私見では正しいのはこの方法である。
(マルマラ大学神学部名誉教授 アリ・オズデク)
(※)日本語訳は「伊斯蘭文化のホームページ」(http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html)のものを引用させていただいた。
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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10501 )