アフメト・ヤシャル・オジャク教授インタビュー:神話化したアレヴィー信仰は若者を繋ぎ止められなかった
2007年03月19日付 Yeni Safak 紙
アフメト・ヤシャル・オジャク教授:「歴史と神学理論の問題を克服できなかったアレヴィー教徒はアレヴィー信仰を十分に説明できず、スンナ派の人々もまた理解しようとしなかった」。
■私の意図は改宗させることではなく理解すること
連通管の原理は社会現象について最もよく当てはまる。国家や社会を構成する部分のそれぞれどの部分で起きた障害であっても短期間で全体に波及している。今日トルコで解決されていない大きな問題の“糸玉”がある。長い間解決されていないことが問題視され、問題とその当事者を潜在的な大きな脅威の下に置いている。クルド問題とアレヴィー問題はこうした問題の中の2つに過ぎない。
クルド問題が単にクルド人の問題ではないように、アレヴィー問題も単にアレヴィー教徒の問題ではない。クルド人たちをアイデンティティと文化の上でクルド人と認めつつ、(一方で)アレヴィー教徒たちもまた改宗させずに理解し、アレヴィー教徒と認めながら問題の解決に寄与しようとすることは事実上困難なことである。社会の一体性の中で共に生きていくこと以外に方法はない。アレヴィー教徒と同じように考えなくとも、彼らを理解し、彼らが彼ら自身を築き上げた基盤に意味を付加する視点にたどり着かなければならない。あるグループやある立場が自らを定義しているやり方に従って彼らを認めることは、(問題)解決の最初であり最も重要なステップである。「私は君のようには考えていないが、君の存在を大切に思っている。君が問題を解決するに当たって君に何か書き取らせたりすることなしに(=無条件に)君に味方する」ということは我々スンナ派の人間にとっても義務である。討論することや答えられない状況に相手を追い込むこと、また論破することや美辞麗句を並べ立てることは、集団を説得することよりもはるかに互いを遠ざけ、思想的、精神的、物理的な交流を根本から絶やす。交流が絶たれると、敵意が再びねじを巻かれ、舞台に「救世主」が姿を現す... アレヴィー信仰はスンナ派の信徒が問題として見るのではなく、価値を認める1つの領域にならなければならない。アレヴィー教徒も歴史的な根拠のない歴史に拘泥することや、ところどころ真相が露呈したスンナ派やオスマン朝と決着を付けようという熱情から解放されなければならない。
週末にイスタンブルで2日間にわたって行われたアバント会議は、アレヴィー信仰の理解に向けて踏み出された大きな一歩であった。この重要な問題についてアフメト・ヤシャル・オジャク教授と大いに示唆に富んだ、冷静な話をする機会を得た。
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以下太字:聞き手、細字:アフメト・ヤシャル・オジャク教授
我々(スンナ派は)アレヴィー派について普段否定的に話しています。社会爆発や、ジェムエヴィ(※アレヴィー派の礼拝所)に向けられた抗議を伴う葬儀、衝突の起こる街中でのデモ、選挙に対するアレヴィーのリーダーたちの政治的な期待、予算配分と人員の要請などについてです... しかしアレヴィー信仰の精神的な側面についてはあまり語られていません。(アレヴィー派の精神的な側面が)その「反抗文化」づたいに受容されている状況があります...
- アレヴィー信仰とはそのようなものではない。反抗文化を通して語られることは、アレヴィー信仰の過去と少しは関係がある。まずもって今日までに出された出版物や開かれた会合についてお調べになれば、問題の核心に関する健全な議論がほとんどなかったことがお分かりになるだろう。それらは大抵、(特定の)プロパガンダに向けられたものだった。
どうしてアレヴィー信仰について価値ある活動はなされなかったのですか?
- 1980年代以降、グローバリゼーションの影響がトルコにも及びはじめた。アレヴィー教徒はこの状況の下、自分たちのことを束縛なく感じるとともに、自らについて説明する必要を感じた。一方で見落とされた要素がある。1979年のイラン革命がアレヴィー教徒を脅かしたため、彼らは守りの心理状態に入った。少しはこのせいもあって最初の頃に出された出版物でアレヴィー信仰は1つの反乱文化のように紹介された。しかしこの種のアレヴィー信仰の歴史は現実からかけ離れたものだった。この点においてアレヴィー派側とスンナ派側の両方の知識不足がある。
■一部のアレヴィーの知識人は名声を得た
アレヴィー信仰がこのような形で議論に上ることにおける、アレヴィー派側とスンナ派側の意識的、あるいは無意識下での影響は何でしたか?
- (アレヴィー教徒が)長い過去において常に日影に置かれていたことがこのことに影響している。アレヴィー教徒は自らを説明する必要を感じたが、説明する作業を引き受けたのは古典的な長老タイプとは異なるアレヴィーの読み手-書き手-知識人であり、彼らは歴史上の出来事の怨念を晴らす方法をとった。多くの歴史や時代から外れた評価が行われた。一部のアレヴィーの知識人もこの状況を利用して名声を得ようとした。
オスマン朝と決着を付けるような形ですね...
- もちろんオスマン朝と決着を付けるというような雰囲気にも突入し、嘘の歴史を紡ぎ始めた。この状況は今でも一定程度続いている。
自らの神話を作り上げる努力ですか...
- ある意味そうだ。なぜなら彼らは2つの問題に直面したことをはっきりと感じたからだ。1つは歴史の問題。オスマン朝以外にアレヴィーが自分たちの歴史について確固たる情報をもっていないことが分かった。2つ目は神学理論の問題。アレヴィー派の理論はあるのか、ないのか?手を伸ばして手に入れることのできた資料が神話の材料となった。
アレヴィー教徒は2つの大きな問題:歴史と神学理論を克服できますか?
- 歴史の問題と言えば、聖アリ(※イスラーム教の第4代正統カリフ)への帰属がもたらした勢いから、自らをシーア派の歴史と同一視したが、これは大きな誤りであった。実際にはアレヴィー派の歴史がシーア派と統一されるのはずっと後になってからのことである。もともとアレヴィー派はイスラームの異端の一派であった。アレヴィー派は中央アジアからこちらにやって来て、スンナ派以外の組織、特にイスマイル派(※シーア派の一派)と関係があった(当時の)神学理論上の産物だった。このことがあまり知られておらず、彼らの手元に確かな資料がなかったため、アレヴィー派は反論主義へと傾いていった。この無知蒙昧さはスンナ派側からも覆い隠すべき現象として受け止められた。
■長老主義は、都市で失望感を生み出した
1960年代のアレヴィー信仰と80年代や今日のそれには違いがあります。長老たちは問い詰められています。なぜなら教育を受けた若い世代の目には、長老主義はアレヴィー派を引っ張っていける組織ではないように映るからです。ジェムエヴィでの儀式も議論されているかもしれません。崩壊が起きつつあります...
- 確実にそうだろう。1980年代にアレヴィー問題が起きたとき、アレヴィー派の論者たちもまた依拠できる確かな神学理論的背景を見つけることができなかった。長老組織は都市化現象に直面し、一種の失望感を生み出した。(アレヴィー教徒は)この失望感が生まれた結果、何を頼ったらよいか分からなくなった。
マルクス主義に傾倒した...
- 1960年代、特に大学生だったアレヴィー派の若者はアイデンティティを見出せない状況に陥った。頼りにできる場所が必要だった。そこでアイデンティティを発見するためにマルクス主義に傾倒した。80年代以降、「回帰」が始まった。マルクス主義者のアレヴィー教徒は自らの伝統に戻り始めた。マルクス主義者というアイデンティティがアレヴィー信仰を説明できないことに気付いたからだ。しかし彼らは長老たちの守っていた神話的なアレヴィー信仰の集積や神学理論には満足しなかった。探求に向かったものの、今日に至るまで宗教儀式の探求に向かったのみで、ジェムエヴィで行われる儀式で満足する状態に留まっている。彼らはこうした紆余曲折を経て、アレヴィー派の将来だけに対する救済(手段)はないということをすでに知っている。今、大学生の若者の間では、アレヴィー派の真の歴史や神学理論に向かう傾向が始まっており、アイデンティティクライシスに陥る者も出てきた。彼らは「先生、こうした状況で私たちは何をしたらいいのでしょうか?」というような質問を私に投げ掛けてくる。
(アレヴィー教徒は)特定の時代において自らを近代性の原動力であり世俗主義の保障をもたらす最も高貴なアタテュルク主義者として提示しました。このことは理解できますか?
- 理解はできる。なぜならこれはアイデンティティの問題とも少し関係しているからだ。アレヴィー派の信徒もスンナ派の信徒も普遍性を持たなければならない。この過程でアレヴィー教徒も自らを再定義する必要を感じている。彼らは好む好まざるにかかわらずいくつかの事柄に巻き取られている。もちろんアタテュルクは彼らにとって重要なリーダーだった。そもそもアレヴィーの信仰はアタテュルクを、またある意味では聖アリを現代に生きるアリとみなしていた。世俗主義の強調は、アレヴィー派において発展しつつあった神学理論の探求の最初の出発点であった。スンナ派に対するアドバンテージのようにみなしたことから、この状況を利用することに努めた。
近代性や世俗主義、アタテュルク主義の強調は、アレヴィー教徒から見て戦略的・政治的な側面もあるのではないでしょうか?
- もちろんある。大多数がスンナ派のこの社会で生きていくためにこれらを利用せざるを得なかった。スンナ派側はアレヴィー派のこの選択とアレヴィー教徒の両方を理解しなければならない。なぜならアレヴィー社会が自らの歴史や神学理論を発見する過程で、スンナ派側に多くのことを負っているからだ。
それなら「アレヴィー教徒をあるがままに受け入れ、対話に移行する」ことがセオリーということになりますか...
- 改宗の幻想を追うのではなく、あるがままに受け入れることだ。まずアレヴィー教徒やアレヴィー現象の理解に努める必要がある。
アレヴィー教徒を改宗させるような国の政策はありますか?
- いや、そのような政策は聞いたことがない。
共和国以降の我が国の伝統はスンナ派体制の中にある?
- 宗務庁の組織を考えてみればかなり自明のことだ。
我が国には越えられないスンナ派の壁がある?
- 目下、この壁が越えられるものであるとはあまり思えない。なぜなら宗務庁の今のアレヴィー現象に対する態度は現実的なものとは思えないからだ。
スンナ派の信徒は譲歩することなしにアレヴィー派の信徒をどのように見るべきですか?
- まずアレヴィー派をイスラームの外側にあるものとして見てはならない。アレヴィー信仰とアレヴィーの信徒を理解するよう努めるべきだ。
しかしイスラームの外側にあるものとして(自らの存在を)示そうとしたアレヴィーの人々が大勢いました...
- アレヴィー派をイスラームの外側にあるものとして示す努力は、アレヴィー派の内部でも国外でも行われたし、今も行われている。アレヴィー教徒は古いキリスト教の信徒であるとの説を主張する人々もいる...
■歴史的・神学理論的な過去への問い
アレヴィー教徒は、自分たちの中でまず何を問わなければなりませんか?
- 歴史上の、また歴史的な過去について問う必要がある。神学理論の根拠について問わなければならない。長老組織はアレヴィー派の屋台骨を形成しており、それを放棄することはできない。長老組織は、アレヴィー教徒を組織化する機能を果たす一方で、アレヴィー信仰の神学理論とある意味で歴史を担っている、従って長老組織は再構築されなければならない。優れた知見を持つ長老がいない訳ではなく、一部の人は(直面している)大きな困難に気づいており、そこから脱出する道を探っている。スンナ派側が彼らに手助けをする必要がある。アレヴィーの知識人には根本的な間違いがある。アレヴィー信仰がまるでトルコに特有の現象であるかのようにとらえている。
■望むとしてもケマリズムに反対できなかった
アレヴィー派側における世俗化についてお話いただけますか?
- もちろん... しかし、トルコの公式イデオロギーの枠組みの中で世俗化をアレヴィー派が完全に望んだとは考えていない。アレヴィー教徒は完全に世俗化を望めば、自らの歴史と宗教理論に反する可能性があった。一部のアレヴィー教徒はこの危険に気づいていたが、スンナ派側に対して自らを世俗主義の擁護者、あるいは近代化の原動力とみなすように、―彼らが使いたがっていた―2つの道具を機能させるためにこのように見られる必要があった。
ある人々は次のように言っています:我々アレヴィー教徒がアレヴィー信仰を解放するために、ケマリズムとの間にある本質的なつながりを断ち切る必要がある、と。
- 彼らはこうした考えを持っているが、今これを実行することはできない。もしケマリズムに反対するなら自分の乗った枝を自分で切り、世俗主義の擁護者であることを辞めることになる...
(アレヴィー教徒は)長年にわたってアレヴィー信仰の明文化された資料を発表すると言ってきました。これにより口述のアレヴィー信仰が明文化されたアレヴィー信仰に移行できるでしょうか?
- このようなプロセスが着手されることが望まれる。アレヴィー派が今日まで積み重ねてきた理論は神話重視の理論だ。それ以外に理論を構築する必要がある。
これをアレヴィー教徒は国に求めるのでしょうか?
- いや、この作業はアレヴィーの知識人の仕事だ。アレヴィーの知識人全員が健全な形で分析的な視野を持ってイスラームの神学理論や歴史を学ぶ必要がある。
「トルコのイスラーム信仰」という理論の中で、アレヴィー派に対して重要な役割が形成されました。特に1995年以降この概念は大変活発となった。トルコのイスラーム信仰とアレヴィー信仰との間の関係に何が起こりましたか?
- 私が見る限りにおいて、その強調は続いている。イッゼッティン・ドアンのグループの根本的な主張はトルコのイスラーム信仰だ。だがこれは不完全な考え方だ。トルコのイスラーム信仰からイスラームが人気を得たという説について言っているのならこれは単にアレヴィーだけが代表するものではない... アレヴィー教徒の内部でもこの役割に対して大きな反発があった。
アレヴィー派が1つのイデオロギーに変わる危険はありますか?
- 1980~90年の間にイデオロギーに変える努力があったが、私はこの時点から後にアレヴィー派がイデオロギーに変わる危険は確認していない。
■アレヴィー派の枠組み
一部のアレヴィーのリーダーたちは演説でアレヴィー-ベクタシーと言っていた。その後メヴレェヴィやルファイの名前を挙げるようになった。アレヴィー派は全てを包摂するのですか?
- これは歴史や現実にそぐわないやり方だ。見かけの一部が互いに似ていることを誤って解釈している。奇妙に思えることは、こうした説明に対してメヴレェヴィやルファイから反応がないことだ。
公正発展党(AKP)政権はアレヴィー教徒にどのような影響を与えましたか?
- この問いに全てのアレヴィー信徒に当てはまるような唯一の正しい答えを出すことは正しくない。穏健なアレヴィー教徒は全く無関心という訳ではないが、AKPのアレヴィー派への見方には好感を持っていない。首相が時折口にする「アレヴィー派が聖アリを崇拝することなのなら、我々は皆アレヴィー教徒だ」というような見方は好まれていない。
アレヴィー派は単に聖アリを崇拝することではないですからね...
- その通り... スンナ派の信徒はこのことを認めなければならない。昨今のアレヴィーの知識人の一部も歴史上実在した聖アリはアレヴィー派のアリではないことを知っている。
祖地離散したアレヴィー教徒の状況はどのようなものですか?
- 1960年代にオランダやフランス、ドイツに労働者として渡った人々の2世、3世が祖地離散(したアレヴィー教徒)を構成しており、今アイデンティティクライシスに陥っている。3世である大学生の若者の一部はキリスト教徒になったことが分かっている。
アレヴィーの若者たちが布教活動のターゲットになっていて、宗教を変えた人もいる...
- これにはアレヴィー社会も不快感を感じている。これが社会的な流れになってはならない。本来成り得ないのだが...
トルコにおけるアレヴィーのロビーについてお話いただけますか?
- アメリカやヨーロッパのユダヤ教徒のように非常に組織化された構造だということは今のところできないが、組織化の努力をしている。
実際には複数のアレヴィー信仰があり、信条から生活哲学まで及んでいます。こうなるとどれが(本当の)アレヴィー信仰なのかが問題になります
- これは当然なことだ。スンナ派において異なる解釈があれば、アレヴィー派にも似たような現象の中で時と場所がもたらす相違が生まれるはずだ。
宗教以外の文化-哲学面での解釈は、アレヴィー信仰の領域にどれだけ含めることができるでしょうか?
- この種の考え方はある意味マルクス主義がアレヴィーの輝きの下に解釈されるのと同じである。アレヴィー信仰については非常に多くのことが言えるかもしれないが、宗教外のことについて言及することはできない。なぜならアレヴィー派は非常に多くのイスラーム神秘主義の要素を含むからだ。スンナ派の宿坊でもピール・スルタン・アブダルの詩が読まれていた。アレヴィー派も我々の歴史の一部とみなされなければならない。我々はアレヴィー嫌悪症を放逐しなければならない。
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※アフメト・ヤシャル・オジャク:1945年ヨズガト生まれ。ハジェッテペ大学教授。
参考:http://tr.wikipedia.org/wiki/Ahmet_Ya%C5%9Far_Ocak(トルコ語)
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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10532 )