Emre Kongar コラム:現実のトルコと「仮想の」トルコ
2007年05月03日付 Cumhuriyet 紙

親愛なる読者の皆さん、ジュムフリイェトの編集方針は、本紙だけを読んでトルコの重要な問題について後をたどることのできる機会を読者に提供する、という原則に基づいて定められた。このため、他のどのメディアにも載っていない(あるいは載せられない)ニュースを皆さんに提供するとともに、販売部数の多い新聞のスクープ記事もコンプレックスを抱くことなく、次の日であっても新たな展開を付け加えて載せている。この原則に合うものとして、今日の私のコラムではまず2つの新聞に掲載されている2つの記事について取り上げようと思う。

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1つ目の記事は、昨日(本紙コラムニストの)イルハン・セルチュクも取り上げた、2007年4月30日付のミッリイェト紙に掲載されたヤセミン・チョンガルの記事である。チョンガルはその中で、アメリカ政府報道官による世俗的で民主的な憲法に基づくプロセスへの支持表明を(それだけでは)不十分だとし、「我々は(参謀総長と政府のどちらか一方の)味方をしている訳ではない」との発言を「腰抜けな態度のお手本」と評した。
アメリカ政府がトルコに適するとみなし、特に民主的・世俗的勢力のアメリカ離れを招いた「穏健なイスラーム」モデルの、国内外の情報源に関する興味深い手がかりとなっていることから、この記事をあえて紹介する必要を感じた。

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親愛なる読者にあえて紹介したい2番目の記事は、サバフ紙に掲載された高名な歴史学者、ムラト・バルダクチュの同日付の記事だ。バルダクチュの記事には「(参謀総長の)警告の真の矛先はナクシュバンディー運動である」とのタイトルが付けられていた。
バルダクチュは記事の中で「共和国の初期の時代に宗教に基づく反乱を主導していたのもナクシュバンディー教団だった。というのも同教団の教義は現世での権力も求めていたからである」とし、1980年以降ナクシュバンディー教団の思想が歴史上初めて国家を支配し始めたと記している。
「...反動、あるいはシャリーアの要求と性格づけられる様々な運動も、ナクシュバンディー教団の武闘派も、またシャリーア主義者として告発された人々も、みなこの教団の成員である」と論じている。その後にも、「トルコにおいて、かつては帝国の哲学という方向で存在したイスラームと、地域的なトルコ風のものとしてあったナクシュバンディー教団とは、(1980年)9月12日(クーデター)以降の社会変化とアラブからの影響とを受けて、村のイスラームという枠組みに入り込んだ」と続ける。
トルコにおいて、政治的・急進的なイスラームと農村社会との関係や、アラブのイスラームとアナトリアのイスラームの違い、あるいはシャリーア主義について研究を行っている国内外の専門家は、バルダクチュのこの記事を注意深く読むべきだと考える。

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メディアの映したトルコと現実のトルコとの間の違いに話を移そう。
販売部数の多いメディア、つまり雑誌化した新聞やその母体のテレビをご覧になると、トルコはバラ色の花園のようだ。経済は軌道に乗っており、経済成長や繁栄が皆のために実現しつつある。世俗主義は保障されており、分離主義者によるテロの影響はほとんどない。エーゲ海での問題やキプロス問題を含め、外交では成功に成功を重ねており、EU加盟に向けた足取りはしっかりしている。
ギュルが大統領候補になったことは、トルコ全土で、そして世界中で喜びを持って迎えられた。

だが現実のトルコは違った様相を呈している
財政赤字が大きく拡大し、経済はいつでも不安定になりうる。高金利・低為替レート政策により、経済がホットマネー(投機的資金)に左右されるようになり、他方では輸出の増加さえ輸入の拡大に依存するようになった。失業が拡大している。資本は長年にわたって額に汗して働いてきた人々の手から公正発展党(AKP)に近い人々の手中へと移っている。
公正発展党政府の宗教を利用した頑迷固陋な政策が世俗主義を危うくしており、日常生活のあり方ですら危機に瀕していると考える(社会の)幅広い勢力が、何百万人も集まって(アンカラとイスタンブルの)広場を埋めた。
ギュルが大統領候補になったことはすっかり危機に様変わりした。

現実のトルコとメディアで流される「仮想の」トルコの間にこれだけ違いがあることから、今後政治だけでなくメディアについても多く議論されなければならないと考えている。

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( 翻訳者:穐山 昌弘 )
( 記事ID:10796 )