今日のミッリイェト紙の創刊号は、発行者アリ・ナジ・カラジャン氏のもとで、1950年5月3日に発行された。たった1台の電話しかなかった新聞社は、(イスタンブル旧市街の)バーブアーリーにある3階建ての木造ビルで、32人の同志によって立ち上げられた。
アタテュルクが望んだラテン文字受容ののちに作成された最初のアルファベットの挿絵も考案した人物であるイハップ・フルシ氏は、共和国の視覚史と歩を一にする図案を、ミッリイェト紙の歴史を印す号にも反映させた。ゴシック体で考案されたミッリイェト紙の最初のロゴは、イハップ・フルシ氏の署名を帯びている。
ミッリイェト紙は、アブディ・イペックチ氏体制が始まった1954年10月1日以降、大きな発展を遂げている。自らを「民衆の新聞」と呼ぶミッリイェト紙は、「思想の出版」という路線で大きく主張を掲げることとなる。メディアの中で初めて、外国のニュース、経済、そして最終面にはスポーツ欄が載せられ、初の「動きのある」写真とともに斬新なテンポの新聞が作成された。
■イペックチ氏の最初の手紙と憲法
このコラムで伝統が継続されている編集記は、アブディ・イペックチ氏の署名入りの「ミッリイェト紙から手紙」というタイトルで1957年5月20日から始まった。
イペックチ氏は、1964年4月6日に発行された記事の中で、ミッリイェト紙の不文の真髄が、初めて紙面に載せられたことを伝えた。本紙を今日まで育てた真髄が、偶然ではないことを証したこの記事は、「ミッリイェト憲章」としてわれわれの歴史に残った。
「ミッリイェト紙はアタテュルク主義である:革命とその根幹の哲学を作り上げた西洋思想の形態を信じる」という記述で始められるこの記事は、力強く「自由と民主主義」を強調して書き連ねられた。
イペックチ氏は1979年2月1日、非道な襲撃で殺害されたが、死後もトルコで最も影響力があり、すばらしい新聞のひとつを残した。ミッリイェト紙は、「メディアの信頼」のシンボルになった旅路を、1979年7月20日に多数の株式を得て、1980年10月6日に「経営者」として新聞社の重要な地位についたアイドゥン・ドアン氏のもとで継続している。
(後略)
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( 翻訳者:山本裕一 )
( 記事ID:10830 )