レバノン人作家インタビュー
2007年05月23日付 al-Quds al-Arabi 紙
■レバノン人小説家ハッサン・ダーウード:アラブの作家が参考にするのは外国小説
2007年05月23日付・クドゥス・アラビー紙(英国)HP社説欄
【ベイルート:バシール・ムフティ(本紙)】
レバノン人作家ハッサン・ダーウードは、1983年の「マチルダの家」を初めとする多くの小説を発表する傍ら、「アル=ムスタクバル」(レバノン日刊紙)の文化面主幹も務めている。同紙で、以下の楽しく率直な対話は記録された。
(問)初めに、あなたの作家としての事業における節目を伺いたいのですが、どのように始まって、どのような成果があったのでしょう?
1982年に書き始め、一年後に初めての作品、「マチルダの家」を発表しました。それに先立ち、「アッサフィール」(レバノン日刊紙)で働いていたので、そこで幾つかの作品を書きました。それを読んだ友人達が、新聞用ではなく本にしたらどうかと言ってくれたのが、私の小説家としての始まりです。
(成果については)実のところ、アラブ人でその小説家としての事業を達成しえた例はほんのわずかしかないと考えます。筆頭に上げられるのがナギーブ・マハフーズで、彼は、執筆において欲した事をおそらく全て書き尽くした。また、多作であるだけではなく、その文体も、伝統的な語り口から現代的なものへと変遷しています。アラブの作家は通常、書くという行為において未だ完成していないことを示すやり方で書いていると思います。
私が一小説家として何か達成できたのかどうかというのは分かりません。私が書いたものは、アラブ小説の軌跡においてほんの小さな痕跡しか残しません。この痕跡には、私自身、私独自のスタイルが刻まれていますが、他者の読み方がそのスタイルに名称を与え定着させるということもあります。作家は、自分が書くものの中で、自分と他の作家を区別する特徴を完全に自覚しているわけではありません。批評や様々な読み方が作家にそれを知らしめるのです。例えば私は、レビューなどで盛んにそう言われるまで、自分がディティールの作家だという事を知りませんでした。自覚するようになってから一層ディティールに腐心するようになり、そのスタイルについての見方を自分で発見しなくてはなりませんでした。例えば、ある特定のキャラクターを際立たせるのではなく、一群の登場人物のグループとしての特徴を示すためのディティール描写である等。私は、ある登場人物が、背が高いとかがっしりしているなどという風には書かないので。
(問)身体的な特徴は全く描写しませんか?
はい、私は(例えば)手の動きのみを描写します。読者は、ほとんど本能的に、与えられた小さな細部からその登場人物の全体像を作り上げると思います。私は既に10冊近くの本を書いてますが、未だに、作家というのは一冊毎に異なる書き方をしなくてはいけないのではという懸念に捕われます。しかし、そういった変更は作家としての連続性を保つのを困難にさせる。頭の痛いところです。
(問)作家としての「事業」という言葉を使いましたが、そのために質問に答えにくいようでしたら、あなたの作家としての試み、という事でどうでしょうか?
一冊目を刊行した時、私は、今後自分が書いていくにつれ、原点を発見し続けるのだろうという確信がありました。最初の出版の後、これまで得た、自分の奥底にあるものから何かを掬い取りながら、その深淵は計り知れないという気分でした。つまり、書くための何かを永遠に発見し続けるだろうと。時が経てば、何らかの「底」に到達するかもしれない。しかし、書き続けることは常にそれに挑戦することになる。あるいは、他にもまだまだ到達すべき「底」がある。これまで私は、ディティール描写というスタイルでくくれるばらばらの作品を書いてきました。もちろん作家として、大作と呼ばれるような作品を書きたいという野心はあり、精進していますが、近々達成という事はないと思います。
(問)その全作品をもって完全小説と言えるような作家がいる一方、実際に一点の大作を成す作家もいますが、どう思いますか?
ええ、1人の作家の個々の作品は部分的だと思う人もいて、私はそちらです。自分の書くものは量も数も少ないと感じるのがその理由でしょう。もちろん、作品としての価値は量に関係ないのですが。例えば、前世紀の偉大な小説の中で、カフカの「審判」などは頁数が少ない。しかし、多くの作家が、その中で自分の世界観を描写しきるような集大成的作品を書きたいと夢見るものです。ロベルト・ムジールのように描写し得ない存在を書くというのは、私には難しく思えます。また、ノーマン・メイラーのように全作品が600頁以上となると、時々眩暈を覚えます。私は、多くの作家がやるように軽い表現やタッチで書く事ができないので、難しい仕事だと思います。最近ポール・オスターの小説を読みましたが、言葉を飾らず、また表現を深める事のない語り口だと思いました。私の書き方は、詩と小説が混ざっていて、レバノンの作家や詩人の友人たちは、私が詩と小説の間で迷っているのだと言います。濃密な書き方の中で現れる文学的価値を捨てて何頁も書き続ける事は、私の手が拒否しますし、詩ではなく小説なのだからといって何百頁もそうやって書くことは、私にとって難しい。表現は、その描写のレベルを維持するにふさわしいよう、選択され研ぎ澄まされるものです。
(問)今日アラブ小説には、構成、様式、表現方法などにおいて多彩な流派があり、それらが共存していますが。例えば(アブドゥッラハマーン・)ムニーフ(イラク生まれ、サウジ王家の勃興をフィクションとして描いた連作で有名)の長編から、非常に短い作品まで。
ムニーフの長編「塩の街」を読んだ当時、実はあまり感心できず書評を書きました。故人は広い心で受入れてくれましたが、その書評の中で私は、この本は書き言葉ではなく話し言葉のようだと述べました。「迷宮」と題された部が「塩の街」5連作の中では一番長いですが、私には、あらゆるスタイルを放棄し、また彼が書いているテーマについての文学的な見方をも捨てているように思えました。それはもちろんアラブ小説界で大作と呼ばれ、恐らく最長の作品です。しかし私は、小品、例えばイブラーヒーム・アスラーンの「何故あなたは悲しむのか」などは、その短さゆえに生きいきとしていると思います。本一冊よりも、たった一文に惹きつけられるという事があるでしょう?私にとっては長編か短編かというのは重要ではないですが、先に言ったように、包括的な作品という意味での大作は目指したいです。それが、あなたの言う、作家としての完全な「事業」という事になるでしょう。恐らく、その「事業」は私が書いてきた一作一作の細部に既に潜んでいると思うのですが。
(問)故ムニーフのような作家は、我々アラブの歴史のある段階に現れた多くの作家同様、発言し問題提起することの方に重きを置いたのではないでしょうか?あなたが求めているような、書くことそれ自体に対する関心や、言葉やスタイルについて努力するよりも?
私は、それは言語使いについて努力するといった問題ではないと思います。ある作家のスタイルとは、その人自身、その内面、それまで培われた全てだからです。このスタイルとか特徴を意識的に発生させられるのかどうか、私には分かりません。つまり、作家には自分のスタイルを説明できない、書いていくうちに発見するという事もあるからです。いろいろな面で、自分では変えられない事というのがあるでしょう?深めようとか豊かにしようという努力はし続けるにしても。これは時々苛立たしいことです、他の見方で世界を見ることができないという事ですから。あなた自身の見方で、あなたのシステムと秩序で世界を見続ける。例えばムニーフのような作家が様々なスタイルで書こうとすると、それは難しいと思います。
(問)レバノンの小説には、その初期から、戦争が刻印されています。これは、トラップのようなものでしょうか。それとも、書く行為が、戦争についての話を越えていかなければならないのでしょうか?
正確なところはわかりません。レバノン文学において戦争が果たした役割を確定する事は、私にはできない。というのは私は、もし戦争が起きなかったらどうだったかという考え方をしないからです。それは起きてしまった。国の文脈に、近代史に、その事実は存在しています。まるで、世界はこうあるべき、とでも言うように。それを生きた我々レバノン人だけが例外なのではありません。言うならば、国の発展とか前進の一部、私達が共生する様々な問題の一つが戦争なのです。もし戦争が起きなかったら私達はどうなっていたか、全く私には考えられないのです。私の書くものの中に、戦争は見出されます。例えば、20世紀の初め南レバノンの村の二家族の間に起きた争いを巡る話を書きましたが、なぜ、二家族が死ぬまで争うような、そんな話になったのかと考えると、これは戦争以外に理由を思いつきません。私の小説的視点の中に戦争が入ってしまっている。だから、過去の話なのに、それを戦争、殺し合い、暴力の過去としか見られない。
アラブの作家や批評家の多くが、戦争を直接記録して書くべきだといいます。私もある批評家に、なぜ戦争を書かないのかと言われました。戦争が起きたとおりに、映画のように書くべきという要請が、多くのアラブの作家から我々レバノン人に対してありました。
私の最初の作品は、20部屋アパートがある建物で平和に暮らしていた住人達が、戦争によってどのように変わったかというのを描写したもので、これは戦争を直接扱ったと言えます。以後の作品では、戦争はテキストのより深部に潜り込んだようです。つまり、日常生活から切り離せないものとなった。例えば私は、他の場所で起きた戦争について書いたり、また、戦争がその原因であった事には言及せずに、ばらばらになった街のことを書いたりします。つまり、戦争とは、最早外から見えるものではないのです。私の書くテキストの内部に潜んでいる。この意味で、戦争は、私達がその外側に住んでそれを書く題材にするといったことではなく、私達はその中に居り、その一部となっていると言えます。私たちの文脈は戦争のそれと混ざり合っている。だから、直接描写という要請に応えることはいつも難しく思われます。
(問)それは、ジャーナリストか歴史家の仕事かもしれませんね。
そうですね、ジャーナリスト、観察し分析する人の仕事です。小説家は恐らく、1860年に起きた戦争、レバノンで実際に起きた古いほうの内戦ですが、それについてより直接的に語る。
(問)多くのアラブ小説が外国語に訳されていますが、例えばラテンアメリカや日本の小説のように世界的な賞を得たり世界中で広い読者層を獲得したりといった事はないようですね。
はい、スペインでアラブ小説翻訳についての会合に出席した事がありますが、ナギーブ・マハフーズの作品でさえ、欧米の読者には充分な関心を払われないという事に気付きました。このため、我々の小説というのは、日本の小説が達したような位置にまだ達していない、あるいは、ラテンアメリカの小説は20世紀最後の30年間、世界で最も注目されましたが、そのような境地に至っていないと率直に言う人もいました。私はここでマハフーズ作品は例外としますが。アラブ小説にも、美しい、あるいは素晴しい試みは見られるのですが、私自身は、アラブ小説の潮流の基礎とでも言うべきものを見出す事はできません。そこからアラブの作家が汲み取れるような源泉は、アラブではなく外国小説です。我々は、アラブ小説の連続性を参照するのではなく、翻訳された、あるいは原語で読んだ外国の作品を参考にしています。この意味で我々は、自然な小説というジャンルの外に留まっている。しかし、外で賞賛されるものが、常に実際の文学的試みというわけでもないですが。つい先週パリにいたのですが、「ヤアコビヤーン御殿」(エジプト人作家アラー・アスワーニー著2003年)はフランスだけで15万部売れたそうです。これは翻訳アラブ小説の売り上げの数倍ではないでしょうか。私はこれがアラブ小説界の遺産となるような文学作品ではないと思うのですが。私には、それ以前のエジプト作家達が描写してきたようなエジプト社会を、その中に見ることのできる、暫定的作品が、偶々人気を博したように思えます。
(問)現在レバノンで起きていることについては、作家、知識人、政治的立場からどのように見ていますか?
正直に言ってあまり政治に関心はありません。政治的に確かなものを追求しようとすると、今起きているような政治的競合に行き着いてしまう。政治の硬直化、形骸化、混乱は以前からです。二年ほど前から第二ラウンドが始まっているのです。レバノン人同士、身内の間での嫌悪感が激しくなったとも言える。レバノン的性格が、程度の差はあれ再び同じ事を繰り返している。ある日は悲観的になったかと思えば、次の日は楽観的に、繰り返されるゲームは何も変わっていません。しかし、危険な可能性に向かって開かれている恐ろしいゲームでもあります。レバノン戦争の初期段階で人々は、各党が築いてきたイデオロギーの崩壊を示されます。そして以前の現実は妄想に過ぎなかったと。それから、支配権を巡って争う人々がでてきます。一般の人々と共に彼ら自身も多大な損失をこうむる事が分からないのです。
(問い)レバノンの文化的現在はどのようなものでしょう?
政治的迷走や枯渇にもかかわらず、近年現れる若い詩人たちの数と、彼らの試みに驚かされます。60年代に私が文学に関心を持ち始めて以来過ごしてきたどの時代にも抜きん出ている。戦争前のレバノンは、3年に一度レバノンについての小説を発表していたのが、今は、一年で多くの小説が刊行されます。恐らく戦争そのものが理由なのでしょうが。人々に語らせ各々の人生の重要性を示せば、彼らは自分たち自身について小説や詩の中で表現し始めます。現在は、イデオロギー、信条や信念などを省みず、軽く素早く、皮肉な感じで表現するのが流行りのようです。
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( 翻訳者:十倉桐子 )
( 記事ID:10974 )