Derya Sazak コラム 終わらない論争
2007年06月01日付 Milliyet 紙

 憲法裁判所が大統領選挙の騒動に関して下した「367票の決定」を「恥ずべきこと」と結論付けたエルドアン首相は、上級裁判所に向けた批判を、しだいに激しくするスタイルで続けている。
 公正発展党(AKP)のリーダーはそれ以前にも裁判所の決定を「民主主義に向けて発砲された弾丸」として結論付けた。
 エルドアンの発言に対する返事がトゥライ・トゥージュから来た。憲法裁判所長官の反応は要約すると以下のようなものである:
「この決定が、学問的レベルで法的観点から批判されることはあっても、現代民主主義においてすべての組織の権限と責任が定められており、これらが相互に争いながら、そして敵意に衝き動かされて活動するのは不可能であるから、なされる批判が定められた憲法の枠組みを超えることは受け入れられない。
 これとの関連で、法の優越性と司法の決定における議論の余地のない拘束性とを拒絶した、首相の威嚇、侮辱、そして敵意を内包した、「歴史的はこの決定を下した人々を裁くだろう。私は中立的な審理を望んでいる。この367票問題は終わっていない。広く議論されるだろう。裁判にとっては不運である。恥ずべきことである。強制や圧力によって決定が下され、理性や学問、経験による説明は不可能である」という形の発言は、直接我々裁判所を標的にしているの」
 トゥライ・トゥージュは慎重に発言し、それは正しい。
 367票に関する議論は、選挙に突入するトルコにおいて1つの「政治的復讐劇」とされるべきではない。
 行政裁判所襲撃事件の圧力の理由が「スカーフ」に関してなされたある決定であることを忘れないでほしい。
 法と政治の間における差異に、まず国を治める人々が敬意を示すべきである。
 憲法裁判所の決定を「議論すべきである」とすることも可能である。しかし、エルドアンがあらゆる機会において出来事を政治的次元に引きずり込んで、論争をあおりたてることは擁護できない。AKPの指導層が全ての機会において上級司法やチャンカヤ(訳者註:大統領のこと)を非難することは、ただ自らのそして党の態度から生じる間違いを見ないふりをすることである。
 もし367票に関する決定が、AKPが国会から「単独で」大統領を選ぶことを妨げようとすること強制や圧力なら、エルドアンは今回「国民投票」によって国民を「チャンカヤの強情」に向かい合わせる:
 「国会が選出しなかったギュル氏をあなた方は大統領が選ぶのです!」
 この片意地の結果として国会は、物凄い速さでセゼル大統領が「拒否」した憲法修正案の二度目の審理に入る。国民投票までの期間が120日から40日に短縮され、7月22日の総選挙において憲法修正も国民に問われるだろう。このように、秋には「二回戦制の」大統領選挙に向かって環境が整えられている。
 エルドアン‐ギュルの二人体制は、選挙で更新される議員数の計算を信用していないため、法を無理に変えている。トルコはこの緊張に我慢ならない!

Tweet
シェア


現地の新聞はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:関口 陽子 )
( 記事ID:11047 )