かつてカッパドキアのある町にギリシャ正教徒が暮らしていた
2007年06月11日付 Radikal 紙

大きな動揺が生じていた。各地の町、イスタンブル、アテネ、さらにはアメリカで相異なる4つの委員会が設置された。それぞれの委員会が携わっていることを成功に導こうとつとめていた。

もう「大移動」は開始するはずだった。僅かな時間が残っていた。遥か昔から暮らしていた祖地を去らねばならなかった。二度と戻らないため旅立っていった、見知らぬ世界に向けて。

館、教会、学校、橋、泉といった自身独特の建築物、教育を受けた者と民衆の大半がギリシャ正教徒である、3000人を擁したカッパドキアの町だった、シナソス(ムスタファパシャ)は。

1924年のことだった。トルコとギリシャの間で「住民交換」が開始した。居所を変えるはずだった、何十万ものひとが。アナトリアからギリシャへ、ギリシャからアナトリアに向けて。

中央委員会はイスタンブルにあった。シナソス住民が、ピレウスに移住するよう準備するはずであった。現地シナソスの委員会は、共有財産と個人財産のうちで救えるものを登録し、仕分けし、箱に詰めていた。これらを無事にギリシャに届けることを請負った。さらに陸路、海路で被る苦労を慮って行程を管理し、移民の食糧や他の要請に対応するはずであった。

■ 新シナソス

アテネ・ピレウス委員会もまた困難な仕事を抱えていた。シナソスの住民を迎え入れ、不都合なことや必要な費用に目を背けずに、暫くの間面倒を請負って、滞在場所を見つけ出し、その後、「新シナソス」を形成するため適当な場所を探すはずであった。アメリカの委員会は、物的援助を集めて移民の定着に役立てることを目的としていた。

さてまったくこうした騒ぎの中にあって、セラフィム・リゾスの頭の中を離れないある考えがあった。しかし一言も口に出せなかった。周囲の人々が、2度と戻らないため祖地を去り、新たな未知の国に移住することの動揺に皆心を奪われていたからであった。さらにこうした状況がもたらす日々の問題にそれほど携わり、手持ちの点でもそれほど逼迫していたので、このような贅沢に関わるいかなる提案も即刻退けられると怖れていたのだ。

セラフィムはついに耐えきれなくなり、シナソス委員会の委員長で兄のリゾス・N・リゾスに考えを打ち明けた。「移住する前に、町の写真を撮りましょう。」結局、20リラの資金が割当てられた、写真撮影のために。

「20リラで何ができるだろうか。カストロ(ユルギュップ)で金融業を営む善良なパンダジディス兄弟の子供たち、イオシィフの息子アナスタスィスとイリアの息子イサクのふたりが、写真機を所持していると聞いた。二人を見つけ20リラで1924年6月1日から一ヶ月間、村の様々なところを共に巡り、求めるところの写真を撮ることで話しがついた。」

セラフィムは、街角、教会、学校、建築的価値のある建物、人々の服装、地域の踊り、泉、市場の光景が撮り残されることを望んだ。ギリシャへの移動の際、イスタンブルに立ち寄り、医師のイオアニス・アルヘラエスの手に写真の乾板を残した、ある願いとともに。「シナソスのアルバムを作ろう。」

■ 郵便で届いた重い包み

「こうして移民の波に引きずられてギリシャに行った。ある日、ネア・イオニアのポダラデスで勤めている絨毯工場に郵便で重い包みが届いた。包みの中から憂いのない私たちの村の、辺境小アジアのギリシャ正教徒の、静かで、知られていない長い歴史の唯一の思い出、『東方の真珠』が出てきた。」

カッパドキアのギリシャ正教徒の歴史について該博な知識をもつエヴァンゲリア・バルタさんは、この82枚の写真からなる「東方の真珠、シナソス」のアルバムを手始めとして、ギリシャにある機関や個人所蔵の視覚資料でさらに内容豊かにした。小アジア研究センターにより実施された聞き取り調査に載るシナソスの元住民の語りも加えられて、240ページの視覚資料、証言双方が豊富な作品が出来上がった。『シナソス:住民交換以前のカッパドキアのある町』である。

本の中にはこの町が、アナトリアの中で良い教育を受けた人々から成り、開明的で、近代建築をもった居住地に変わっていく話しもある。そこには十分に耕すべき土地はなかった。人口が増加すると、村の暮らしは苦しくなった。人々は異郷へ旅立ち始めた。村の聖職者はイスタンブルへ旅立つ若者を祈り祝福した。

■ 苦渋の旅路

聞き取り調査ではシナソス住民の(語る)苦渋の旅路が採取された。「外で夜を過ごした。トルコ人の村を通過する際、牛乳、ヨーグルト、卵をもらった。アンカラまで8日で着いた。そこで一日過ごし、馬またはラバに蹄鉄をうち、再び出発した。12日目にはイズミトにいた。そこから汽車に乗ってハイダルパシャ駅に移動した。そこでは親戚と親友が待ち構えており、イスタンブルに連れて行った。

イスタンブルに行った者の大半は、富を得て10-15年後に帰郷した。村に戻って結婚し、妻を村に残しあるいは連れ立って再び異郷に旅立った。新婦は夫に10-15年後に再会できた。男は妻を身ごもらせて旅立ち、戻った時には12歳の若者と対面した。」

ただこうした異郷での暮らしが、シナソスが豊かになり、イスタンブルで金を稼ぐシナソス出身者が首都で際立った者たちの仲間入りを果たすことに繋がったのだ。しかし人々がもっぱら関心を寄せるのを禁じ得ないのは、キャビアや魚と関わる仕事が、どうやってこのカッパドキアのギリシャ正教徒に関わりあうようになったかだ。この本にはその答えがある。

シナソス出身者は、イスタンブルでキャビアを扱う仕事をし、黒海やマルマラ海の魚を塩漬けする際、イワシ、サバ、子持ちのサバ、ハガツオを塩漬け、ロシアから持ち込まれた黒いキャビアの商いをおこない、オスマン帝国の各地に送っていた。

■ キオス島出身者から受け継いだ

「この商いのおかげで豊かになり、故郷のシナソスを宝石に変えた。シナソスの各家庭にはイスタンブルのキャビア業に携わる者がいた。シナソス出身者、アナトリアの恵まれない環境で育ったカラマン地方出身のこの人々が、キャビアの仕事にいかに熱意を抱いていたかは賛嘆を呼び起こす。

伝えられるところによると、1821年以前にイスタンブルの全キャビアを取り扱ったのはキオス島出身者であった。ギリシャの反乱とともにキオス島出身者がイスタンブルを去ると、帰還時に店舗を返還するという条件でシナソス出身者に一時的に引き渡した。」

それぞれにすばらしい説明と写真がある、ビルザマンラル出版からでた「シナソス」のアルバムには。編者のバルタ女史は、「私の祖先の郷を、カッパドキアを、この魅惑的な地を、祖母が語ったことをみれば甘くも辛くもあるこの地を、まだ子供の頃から、(ギリシャの)カヴァラの移民街で成長する中、愛し始めていたのです。この祖地の、その当時の味わいは今でも私の中に染み付いています。そのことが、成長する中、カッパドキアに関心を抱く要因となったのでした。

アルバムをめくり始めると、1900年代に向けてタイムスリップしてしまいます。特に読み終えた時、町全体を通りという通り、家々、学校、人々、まつわるお話をよく知ることになりますから、『あーっ、自分もかつてはシナソスの住民だったんだ、とね』。」

Tweet
シェア


現地の新聞はこちら

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:清水保尚 )
( 記事ID:11120 )