■1983年の後
(この作業は、本紙の要望により選挙統計を利用してデータ調査株式会社により実施された。記事の中で使用された選挙統計は、トルコ共和国統計研究所(現在のトルコ統計協会)より購入された選挙区別選挙統計であり、今日の行政的編成(の変化)に合わせて調整したものである。データ調査株式会社により、スィナン・ゼイネルオール博士とともに実施された新たな行政的編成への調整作業は、1983年の選挙から2002年の総選挙までの国会議員選挙を含んでおり、(それにより)81県の分布を比較調査することが可能となった。この一連の記事はセズギン・テュズンの監修でアフメト・パイズン、エジェ・セルヴィ、バルシュ・トゥンジャボイルにより作成された。)
大統領選出の議論ののち存外に実施された7月22日の選挙で民族主義者行動党(MHP)は得票率の足切りを越え第三党となった。同党の得票率の増加は注意を引く。
民族主義者行動党のここ27年の政治的冒険は注目を集める。1991年に福祉党の名簿より議会に進んだ同党は、1995年の選挙に単独で選挙に参加し議会で会派の形成に成功した。1995年の選挙よりのち高まったテロと民族主義は、同党に最も輝かしい選挙結果をおさめさせた。
1999年の総選挙で17,97%の得票率をえて第二党にのぼった民族主義者行動党は、民主左派党と祖国党とともに1980年の9月12日のクーデター後に初めて連立政権を担った。同党は2002年には投票率10%の足切り以下にとどまった。以下に掲載する一連の地図を調べると、同党が今回の選挙でえた成功について一層しっかりと考察することが可能である。
(地図1)1999年の選挙で民族主義者行動党がえた得票の県毎の分布
■ 東部と西部を分つ境界
地図1上で緑色に塗った県、(トルコの中央で)黒海から地中海にかけて広がっていく県は、民族主義者行動党(以下、MHP)が平均(15-17,97%)以上の票を獲得した県を示している。北西部と南東部に集中する、赤く色塗った県は、MHPが平均以下の得票をえた場所を示している。緑色に塗った県の東西双方にみられる黄色に塗った県は、同党が1999年の選挙でえた得票率、15%前後(の支持獲得)を反映する、平均的な県である。この分布により、MHPは東西を分つ境界のように現れている。
(地図2)2002年の選挙で民族主義者行動党がえた得票の県毎の分布
■ アナトリアの中央部で支持が高い
2002年の地図2は、アナトリア中央部でのMHPの支持の高さが幾分分散し、つまり緑色(平均以上)の県が分散する一方で、南東部で同党がえる得票の低さが継続しているのを明らかにする。2002年の選挙では前回選挙でえた得票率の半分以上を失い、8,35%の得票率で(10%の)足切りにかかり、南東部を除き全県で大いに票を減らした。
(地図3)1999年と2002年の選挙結果の比較による民族主義者行動党が失った得票の県毎の分布
■ 各地で得票の喪失経験
1999年の選挙に比べ2002年にはMHPは、ほぼ全県で票を失った。ただ1999年選挙で得票率が平均以下であった県では、2002年でも同程度の票を獲得したのがみられる。2002年の選挙で前回選挙の得票率を上回った唯一の県は、黒海岸の新設県であるバルトゥンのみであった。以下の地図4に示す2004年地方統一選挙は、同党が再び上昇傾向に入ったことを示すものとなった。
(地図4)2004年地方統一選挙で民族主義者行動党がえた得票の県毎の分布
■ 2004年に足切りを越える
2004年統一地方選挙でMHPの得票率は10,5%に上昇し、足切りを越える投票率で得票上の上昇を示す分布が北西部に向けて伸びているのが明らかになった。地図4上で緑色に塗られたこうした県は、(西方の)トラキア/マルマラ地方と南東部を除いた県でMHPが総じて平均以上の票を得たのを示している。こうしてMHPは1999-2002年の連立期の衝撃を払拭し、高まる民族主義の風潮により(南東部の)クルド地域周辺を囲んだ。
(地図5)2007年総選挙で民族主義者行動党がえた得票の県毎の分布
■ 西部に向けて伸張
2007年となりMHPは今一歩すすんで14,4%の得票率で足切りを超え、第三党となる中、1999年に到達したレベルに今一歩近づいた。しかしこうした得票率の上昇は、南東部を囲むというより幾分西部に横滑りしたことが見受けられる。地図5上で緑色に塗られた県は、MHPが自身の平均得票率(15-14,4%)以上を獲得した県であり、アナトリアの中央で黒海から地中海へと線状で伸び、そこから西へ広がる展開を見せている。MHPの獲得得票率のこうした地域上の分布の変化は、南東部地域での赤色(平均以下)地域の拡大とともに考察すると、同党が2004年の統一地方選挙で示した拡大傾向とは全く異なる方向に伸張傾向を示しているのをうかがわせる。
(地図6 )民族主義者行動党の獲得得票の県毎の分布の変化(1999-2007年の分布の比較)
■異なる支持層
地図6は、MHPが1999年選挙で最も支持のあった県でかつての支持に届かず、これとは逆にエディルネ、アイドゥン、バルトゥン、カルスといった県で1999年の得票レベルを上回ったのを示している。地図6上で黄色に塗った県は、同党が1999年選挙の得票レベルに達すことができたことを示す中、こうした県は大いに西方によっているのが注目される。
南東部では同党の平均的な得票レベルは低いが、2007年選挙では再度1999年の最高レベルの得票結果に達したのは、過小評価すべき展開ではない。なぜなら2007年の獲得得票は、1999年のそれより25%程後退しているためである。
結論として、2002年の選挙で公正発展党にさらわれた有権者の一部を取り戻し、西方の海岸部で票を獲得して、2007年のMHPは、1999年のそれとは異なる有権者層を引きつける過程にあると述べることができよう。恐らく地理上に反映するこうした有権者の変化には、開催された共和国集会が影響したといえよう。しかしMHPに投票する有権者の性質の変化について示されたこうした手がかりは、単なる変化ではなく地理的な横滑りの反映かもしれないし、時とともにまたは調査により実態が判明する新たな構造を伝えるものなのかもしれない。
(訳者註)訳文に地図を掲載できなかったため、ラディカル紙の本記事にアクセスし、確認をお願いします。記事作成者は、票の読み方を明確に説明しているとは思えませんが、各選挙で獲得した得票率をもとに、その得票率を上回る県に緑、同等の県に黄色、それ以下の県に赤色に塗っているものと判断されます。
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( 翻訳者:清水保尚 )
( 記事ID:11519 )