反イラン小説『シーラーズの9月』が米有名出版社より出版:映画『300』現象の波が文学の世界にも
2007年08月07日付 Jam-e Jam 紙
【文芸部:スィーナー・アリー・モハンマディー】アメリカの有名出版社ハーパー・コリンズが『シーラーズの9月』(The Septembers of Shiraz)というタイトルの本を出版した。この本の中で、革命初期に起きたもろもろの事件が暴力に満ちたものとして、誇張されて描かれている。
本書はイラン生まれの若手作家Dalia Soferの処女作で、ハーパー・コリンズ出版社から出版された。ハーパー・コリンズは有名出版社であり、実績のない若手作家の処女作を出版するなどということは滅多にない。〔それゆえ、ハーパー・コリンズのような出版社から〕この本が出版された唯一の理由は、本書の内容が
反イラン的であり、さらに主人公がユダヤ人であることにあるとほぼ間違いなく言えるだろう。つまり、この本はアメリカの現在の政策を支持する目的で出版されたということだ。
本書は、あるユダヤ人家族に関する物語である。父は金の売買を手がけており、顧客の中にはファラ・パフラヴィーもいる。このようなことから、父はある程度王制支持者であり、革命の初期に革命勢力によって逮捕されてしまう。父の消息が家族には伝えられぬまま、彼はイランの獄中で厳しい拷問に遭うのであった。
〔訳注:ファラ・パフラヴィーは、王制時代のイランの王であったモハンマド・レザー・シャーの3番目の妻であり、革命とともに海外に亡命した。なお、イランに住むユダヤ教徒の多くは、貴金属商を営んでいる〕
この小説の中で、イラン・イスラーム革命に関わった人々は、暴力と拷問を愛する、精神に問題をきたした人物として描かれ、非難されている。
さて、本書が出版された背景について若干考察してみるならば、先日ヘリテージ財団〔*米の保守系シンクタンク〕が発表した次のような分析を指摘することができよう。それによると、イランを攻撃し、同国の核開発の発展を阻害し、その抵抗を挫く最も効率的な戦略の成否は、イラン国内の市民、特に若者に対する心理的・文化的オペレーションにかかっているというのだ。
以上の点と『シーラーズの9月』の出版とを考えるならば、革命の価値を確たるものにすることにおいて文学、特に小説が担っている役割について、もっと真剣に注目する必要があるだろう。もしわれわれがそれを怠れば、敵は〔革命文学の間隙を付く形で、反革命的な〕小説作品を出版し、それらを《文化的消費物》として、われわれの若者たちに提供するという動きに出るだろう。そして一度そうなってしまえば、若者たちの心からそれを消し去ることは、はなはだ困難になってしまうことが予想されるのである。
実のところ、我が国の小説文学はここ30年間、革命に対してあまりに注意を払ってこなかった。すでに30年近くが経ってやっと、《革命小説祭》という祭典の第1回目が予定されているという有様なのである。我が国の出版業者たちも、革命を題材とした作品の出版には及び腰だ。そのようなときに、10歳までイランにいたというだけの、しかも無名の作家が、アメリカの最大手の出版社の支援を受けて、恐らく文学的な価値や信頼といった観点からは特別優れた点などないにせよ、イラン革命に関する小説を出版しているのである。
心理的・文化的攻撃というのは、まさに西洋が長年にわたってイランに対して行ってきた、中心的活動である。
映画『300』の制作、サルマーン・ラシュディへのナイトの称号や賞の授与、アラブ諸国によるイラン文化の囲い込み、国外で活動するさほど注目に値しないイラン人詩人・作家に対する支援、そして国内の同様の詩人・作家に対する、ときに間接的な支援。これらはいずれも、イランに対して心理的・文化的に攻撃を加えることを目的としているのである。
かつて革命最高指導者は、次のように警告をしたことがある。すなわち、敵は人類の各社会がもつ国民アイデンティティを破壊し、自らの目的をさらに実現させるために、《文化的NATO》を結成しようとしている。彼らは、きわめて広範囲にわたって多様でありながら、互いに連鎖的なつながりを保っているメディアの力を利用することで、各国及び各国民の政治的・経済的・社会的・文化的な動きを支配しようとしている、というのだ。最高指導者のこのような指摘に注意を払いつつ、もう少し真剣に、かつ公的な学術会議の枠から離れて、この問題に取り組む必要があるだろう。
最高指導者が上述のような警告を発したのは比較的昔のことだが、現在ではこの問題に対する社会や国の責任者たちの危機感はよりいっそう高まっている。しかしながらそれを行動に移す段になると、文化的領域に割り当てられている予算は、いまだきわめて少ないということに気づく。
文化革命最高評議会は、《文化工学》〔の構築〕や《文化的NATO》との対決を視野に入れた決定をいろいろと行っているが、多くの場合、関係する省庁やその他の機関に割り当てられた予算が不足しているために、実行に移されず仕舞いとなっている。
専門家らの考えでは、あまり悲観的になる必要はないとのことだが、しかしこのような動きは《文化的NATO》の始まりであることに違いなく、イラン文化を囲い込み、若者の精神から価値観を抜き取るような西洋の生産物の事例は、今後さらに多くなっていくことが予想されよう。
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( 翻訳者:斎藤正道 )
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