かつてのラマザンの思い出
2007年09月22日付 Milliyet 紙

様々な宗教コミュニティーが共に暮らす街

我々が居住していたオルタキョイ・テシュメルディヴェンは、イスタンブルの三つの宗教コミュニティーが共存する街でした。イスタンブルにはそのような街がありました。キリスト教徒、ユダヤ教徒、そしてイスラム教徒です。キリスト教徒はギリシャ人とアルメニア人とに2つに別れ、ユダヤ教徒(ムーセヴィーとヤフーディ-)は異なった宗教コミュニティーをつくっていました。しかしこれら3つの宗教は、9月6-7日の事件(訳注:1955年に発生した非ムスリムに対する襲撃事件)まで共に極めて友好的に生活していました。

ディクタンという、非常に良い友人がいました。彼がもしもまだ生きているのならば、アッラーが長寿を与えて下さいますように。(訳注:非ムスリムの彼が)亡くなっているのならば、安らかに眠りたまえ。彼は後にエンジニアになり、パリに落ち着きました。子供の頃の非常に良い友人でした。我々の宗教的信仰に敬意を払ってくれる街でした。ほら、今日よくこういう街の話があるではないですか、街の抑圧とでもいいましょうか。あの頃にもそのような街はありましたが・・・。

■ラズィエ・ハヌムの断食
我々のラマザン(断食月)で、彼らは普通、我々の信仰や伝統に反するようなことはしなかったと、私は良く理解しています。我々も彼らの祝祭日や祭日に対して無関心ではありませんでした。誰が何といおうともラマザンの中で最も関心をひくのはイフタール(断食開けの食事)です。長時間の空腹の後だったので、人々はすぐにロクム(トルコのお菓子)を2,3個急いで食べて、喫煙者であればタバコを吸ったり、ある者は好きな食事を食べたり、その後に少し間をおいてカフベ(コーヒー屋)に出かけたり、もう少し老齢であるのならば夜の祈りに行ったり、また、「夜の祈りに行く」と言ってカフベに行きトランプをしたりしたものです。

当時、ラジオも全ての家にあったわけではありませんでした。贅沢品と考えられていました。イフタールになったことは3つのことでわかるようになっていました。ミナレット(尖塔)の燭台に火が付き、ムエッズィン(礼拝呼びかけ人)がアザーンを朗誦したものです。イフタールの時間になったことがわかると、皆断食を中断しました。更に大砲の音がイフタールの時間が来たことを知らせていました。イスタンブルの(大砲を撃つ)数少ない場所の一つであるセリミイェ兵舎では空砲が撃たれていました。

ラズィエ・ハヌムという隣人がいました。その信仰が完全な年配の女性でしたが、子供は好きではありませんでした。あるラマザンの日に友達が「ラズィエ・ハヌムに何かしよう、 断食を早めに中断させよう」と言いました。

■早めに爆発した大砲!
ラズィエ・ハヌムは既に目が良く見えていませんでした。ミナレットを見ることができませんでした。そのため彼女にとっては大砲の音が頼りだったのです。友達の一人が缶に何かを仕掛けました。おそらくあれは当時の火炎瓶です。イフタールが19:30であれば、19:00頃に皆は準備をして空地に行きました。我々はそれぞれの場所につきました。仲間の数人はラズィエ・ハヌムの庭を見ていまいした。

19:00に大砲、すなわち私たちの缶が爆発しました。すぐに一部の家では人々が窓に駆け寄っていました。この時間に大砲の音がする筈はない、といって。でも、ごめんなさい、私たちはラズィエ・ハヌムの断食を中断させてしまったのです。

何年も後に私たちはこの悪戯を彼女に話しました。彼女は怒りましたが同時に「そしたら明日埋め合わせの断食をしましょう。不足していたのだから」と言いました。

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( 翻訳者:富田祐子 )
( 記事ID:11980 )