バルダクオール宗務庁長官、宗教文化の授業で礼拝は教えられないよう
2007年09月22日付 Radikal 紙

新しい憲法草案によって「宗教文化と道徳知識に関する授業は義務であるべきか、そうではないか」という議論が再び始まる中、宗務庁のアリ・バルダクオール長官は学校で「義務」であり「世俗主義と調和のとれた」授業を望んだ。

バルダクオール長官は、ラディカル紙の質問に対し、「宗教文化と道徳知識に関する授業がその名に値するように。礼拝はこの授業では教えられるべきではない」と答えた。同長官は一昨日にイェニ・シャファク紙に対しても、もし宗教の授業が義務でなくなれば、授業をとっていない子どもたちの家族が「判別される」こととなり、選択性の宗教の授業が「アレヴィー派・スンナ派」といった区別をあおる可能性があると述べた。

■ 「2つの授業が混同されないように」

バルダクオール長官は、ラディカル紙の質問に対し、自分たちの職務は確かで批判的、恣意性に陥らない宗教教育を確保することであると明らかにし、宗教教育と宗教文化・道徳知識に関する授業が同じであってはならない、と述べた。
バルダクオール長官は、この区別がしっかりと行われる場合、イマーム・ハティプの問題は生じないであろうと述べ、「宗教文化・道徳知識に関する授業が宗教教育へと変わることを妨げよう。知識を授けるという最適の状態を保とう。授業の名に相応しくなければ」と話した。

バルダクオール長官は、「宗教文化・道徳知識に関する授業では、礼拝、コーラン教育が行われないように」と述べ、こうした授業で明らかな宗教教育を行うことは、世俗主義に矛盾しよう、と注意を促した。

「それでは宗教教育はどのように行うことができますか」という問いに対して、同長官は「そのことに関する提案はない。この議論はあなた方がしてください」と答えた。また、憲法草案作成の際に生じているスカーフ議論に関しても「我々はこのことには関係ありません」と答えた。

■ 内容を変えて、授業は残すよう

バルダクオール長官は、学校での宗教教育に関して一昨日にイェニ・シャファク紙に語り、要約すると次のような見解を示した:

「宗教文化・道徳知識に関する授業は義務であり続けなければなりません。この授業は子どもたちにお清めや礼拝に親しませ、ムスリムにするための授業ではありません。内容に間違いがあれば取り除かれなければなりません。しかし選択性にする場合、もはや授業ではなくなり教師が乞い願い子どもたちを教室に引き止める、緊張感のないものに変じてしまう。

子どもたちの口を借りると、『信仰はあるの、ないの』というような議論に直面する。家族の望みで(授業の義務を)免除する制度になれば、家族が宗教の授業を望まないといった形で、その家族を判別することになろう。スンナ派・アレヴィー派といった区別をあおることになる。」

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( 翻訳者:釘田遼香 )
( 記事ID:11982 )