海外の映画祭の功罪
2007年10月08日付 Jam-e Jam 紙
芸術家というものは、観られること、自らの作品が他者の注目を浴びることを願うものである。国際的な映画祭は、このような欲求を最大限利用している。彼らは自らの政治的・文化的目的に適い、一つのプロパガンダ的・文化的道具として支配体制を強化・称賛し、反対に自由な諸国民と彼らの自由と独立を希求する運動を侮蔑・攻撃する映画作品に注目を寄せる。彼らはこの種の映画や映画制作者たちを紹介することで、事実上標的となった国の一部の種類の映画を支援し普及させようとするのである。
このようなシナリオがイラン映画に重大かつ基本的な影響を与えてから、まさに何年にもなる。彼らはイスラーム国イランの状況やイスラーム革命の文化的な信条について、陰鬱で不適切な姿を世界の観客たちの意識に刻み込むことに成功した。それだけではない。彼らはまた、我が祖国の芸術的な才能を事実上、浪費させ、映画制作者たちを自らに奉仕させ、偉大なるイラン国民とその願望に対する自らの敵意のためにもてあそんでいる。彼らは、映画に隠れてイスラーム国イランのイメージを激しく攻撃し、自らの不能ぶりとコンプレックスを慰撫しているのだ。その一方で彼らは、効果的で不朽の現代メディアである映画がイスラーム革命のメッセージを伝えることを、許そうとしないのである。
映画祭に「イラン的」とか「外国的」といったものはない。映画祭は映画祭だ。どの映画祭もそれぞれの規定・性格付けというものがある。イランの映画祭であれ、海外の映画祭であれ、それに変わりはない。例えば環境問題をテーマにした映画祭では、規定で環境破壊をテーマとした映画が受け容れられることになっている。そのような映画がイランで制作されようと、あるいは欧米で制作されようと、「この映画祭はイラン人映画制作者に対して、賞を取りたければ環境破壊をテーマとした映画を制作するよう要求している」などと不満を口にすることなどできないのだ。
どの映画祭もそれぞれのテーマと追求していて、自らの目的に共鳴する作品だけを選び出し、その中から最終的に賞を与えている、という見方もある。しかしだからといって、映画祭の側が映画制作者に対して「こんな映画を作ってくれ」などと要求するようなものではないのである。
政治上・プロパガンダ上の目的を中心とした価値判断が行われる場合、〔賞を授与する際の〕選択や優劣付けの規準もまた、これらの価値判断に影響されることになる。海外の観客たちは、イランの現実の姿を知らず、毎朝毎晩、自国のマス・メディアや衛星放送から、イランに関する陰鬱で混乱した姿を受け取っているために、イラン人監督の手によって制作されたこれらの映画を観ることで、〔欧米メディアが伝えるイランの陰鬱な姿が〕証明されたと思い込んでしまう。イスラーム国イランを知ろうとする意欲はなくなり、イランを悪の権化だと考えてしまう。彼らは自国のメディアを信用しているが、そのような信用は危険だ。そのような信用を背景として、これらのメディアはある重大な時に、イランに対して大打撃を加える可能性があるからだ。
これらの〔海外の映画祭で賞を受賞した〕映画は、イランを知らない海外の観客向けに作られている。というのも、イラン人の観客にとって、映画で偉大なるイランが誤って描写され、誇張されていることは明らかだからだ。これらの映画は、一種の自虐であり、文化的マゾヒズムである。こんなものを好む国民などどこにもいない。統計によれば、この種の映画はイラン人観客の半分も映画館に呼び込むことはできない。いずれにせよ、イラン映画が陥っている危険な状況はこれまで以上に、国のマクロな文化行政において再検討されるべきであるように思われる。
( 翻訳者:斎藤正道 )
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