バーギー氏、エヴィーン刑務所に収監
2007年10月15日付 E'temad-e Melli 紙

 「受刑者の人権を守る会」の理事長を務めるエマードッディーン・バーギー氏はテヘラン一般・革命検察庁治安担当局審問部第一課に出頭したところを拘束され、エヴィーン刑務所に移送された。

 ユーセフ・モウラーイー氏とともにバーギー氏の弁護を担当しているサーレフ・ニークバフト氏はこの報道を認めた上で、次のように語った。「昨日朝、新たな罪状がバーギー氏に通告された。当初バーギー氏は5億リヤール〔約600万円〕の保釈金で保釈される予定であった。ところが、1382年〔2003/4年〕に言い渡された判決の執行のためにその場に来ていた判決執行官らによって、同氏は刑務所に移送されてしまった」。

 「受刑者の人権を守る会」のスポークスマンを務めるニークバフト氏は、この裁判の弁護士として昨日朝、バーギー氏に対する審問に立ち会う許可を得ることはできなかったとし、その上でバーギー氏に起きた出来事について、次のように述べている。「治安局第一課のマティーン・ラーセフ予審判事は昨日朝、《反体制プロパガンダ》、《国の治安刑務所の受刑者から得た政府機密情報の漏洩》、ならびに《「受刑者の人権を守る会」の会合や著作物におけるこれらの機密情報の漏洩》などの罪を、バーギー氏に対して通告した。その上で5億リヤールの保釈金の支払いを言い渡し、さらなる審理を次回の審問に委ねたところだった」。

〔中略〕

 バーギー氏が問われた罪

 エマードッディーン・バーギー氏が昨日エヴィーン刑務所に収監された際の根拠となったのは、1382年〔2003/4年〕にサイード・モルタザヴィー判事を裁判長とする《政府職員特別法廷》の第1410法廷で、《反体制プロパガンダ》及び《イラン・イスラーム共和国体制当局者に対する侮辱》の罪をめぐって開始された裁判の判決である。この裁判は、〔1998年に起きた〕知識人連続殺害事件に関するバーギー氏の記事の内容をめぐって行われたもので、その後第1410法廷では扱うことができないとの理由から、革命裁判所第6法廷に場所を移して争われた。同法廷のバーバーイー判事は審理の後、バーギー氏に対して《当局者に対する侮辱》については無罪を言い渡したものの、《反体制プロパガンダ》の罪は認定し、執行猶予付きで1年間の禁錮刑を言い渡した。

 しかし、このバーギー氏に対する《執行猶予付き禁錮刑》の判決は、《裁量による禁錮刑》へと変更されることになる。この間の事情について、この裁判の弁護士を務めたサーレフ・ニークバフト氏は次のように語る。
革命裁判所第6法廷の裁判長が出した判決に対して、バーギー氏は不服を申し立てなかった。これに対して《政府職員特別法廷判決執行局》は判決を不服として、バーギー氏が1379年から82年まで〔=2000年から2003年まで〕禁錮刑に服していたことを根拠として、《執行猶予付き禁錮刑》を《裁量による禁錮刑》に変更するよう求めた。審理の結果、《一年間の裁量による禁錮刑》への変更が認められてしまった。

 バーギー氏の活動は服役中も続けられる

 こうして、上記の判決に基づき、ジャーナリストで《受刑者の人権を守る会》理事長のエマードッディーン・バーギー氏は昨日刑務所に収監され、長期にわたってエヴィーン刑務所の塀の向こう側に閉じこめられることになった。バーギー氏の弁護士を務めるサーレフ・ニークバフト氏は、この事態を極めて遺憾なものとしているものの、しかしバーギー氏の生活にはほとんど影響がないようにも思われる。ニークバフト氏は司法関係者に対して次のように語っている。
エマードッディーン・バーギー氏の拘束は、家族や子供たちから引き離されるということ以外に、彼の生活に事実上何らの影響も及ぼさないだろう。というのも、バーギー氏はエヴィーン刑務所に収監され、3年間の服役を経験した1379年ファルヴァルディーン月〔2000年3月21日~〕以降、事実上政府系機関の職に就くことはできず、著書の出版もままならなかったからだ。さらに、バーギー氏は教育や研究を目的として欧米の権威ある大学や研究機関から招聘されていたが、これも海外への渡航禁止のためにかなわなかった。それゆえ、彼が自由の身にあったとしても、彼にとっては何の意味もなかった。むしろ、刑務所の外ではバーギー氏の身に事件が起こる可能性もあったが、拘束された現在、事件に巻き込まれる可能性はなくなったといえる。司法当局者が彼の身の安全を保障してくれる、というわけだ。

〔後略〕

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( 翻訳者:斉藤正道 )
( 記事ID:12177 )