ラーリージャーニー氏、国家安全保障最高評議会書記を辞任
2007年10月21日付 E'temad-e Melli 紙
写真:ガーデル・アーゲリー
核問題の交渉責任者で「東」への視点を外交にもたらした人物、「ウィン=ウィン」の外交を提唱し、ウラン濃縮停止以外のすべてについて協議の対象とすることを原則として掲げた中心人物であったアリー・ラーリージャーニー氏が、国家安全保障最高評議会を去ることになった。ハヴィエル・ソラナEU共通外交代表との協議を3日後に控え、イラン核問題は
サイード・ジャリーリー氏に委ねられた。
ジャリーリー氏はイラン外務省欧米担当次官で、現在42歳。政治学で博士号を取得している。彼はモッタキー外相の下で、海外への出張を精力的にこなす外交官だ。『イスラームの預言者の外交政策』なる著書もある。彼は官僚としてのキャリアを1368年〔1989年〕に開始した。政治アタッシェに始まり、アリー・アクバル・ヴェラーヤティー外相の下で外務省評価選択部調査課の課長を務め、三等書記官、二等書記官、一等書記官、三等参事官、北中米課の課長補佐、二等参事官、最高指導者事務所総局長を経て、大統領顧問及び外務省欧米担当次官に就任、イランにとって近年重要な位置を占める問題〔=核問題〕を任されることになった。
ラーリージャーニー氏の辞任によって、彼はイラン核問題上級責任者の職を辞するのではないかとの長期にわたり繰り返されてきた憶測・噂にも終止符が打たれることになった。この噂は、
大統領選挙で雌雄を争い、一方が大統領に、他方が国家安全保障最高評議会書記に就いた二人のライバルの間に、意見の対立が存在していたことが発端となっている。
ラーリージャーニー氏はアフマディーネジャード氏が大統領選で勝利を収めた当初より、第9政権が取るべき外交政策の原則について口にしていた。そのことから、誰もがラーリージャーニーが外務大臣に就任すると見ていた。しかし「ガラスのビル」(イラン国営放送)の総裁を務めたラーリージャーニー氏に対する処遇は、国家安全保障最高評議会に用意されていた。こうして核問題は、1384年モルダード月24日〔2005年8月15日〕、ハサン・ロウハーニー師の手からラーリージャーニー氏に委ねられたのであった。
ラーリージャーニー氏は、ハーシェミー=ラフサンジャーニー政権の下で文化イスラーム指導相を務め、また革命防衛隊の司令官としても活躍した。彼はその後、政治の世界に入り、1384年〔2005年〕の大統領選挙では(原理主義派の評議会である)「イスラーム革命調整評議会」が推す大統領候補者になった。その後、彼は上級の外交官として、イラン核問題をめぐるさまざまな協議を取り仕切ることになったのである。
国家安全保障最高評議会書記として職務に就いていた間、彼は今年のファルヴァルディーン月〔3月21日〜〕にイランで拘束されていた
15名のイギリス海兵隊員らの釈放など、その他の安全保障上の諸問題にも関わった。イギリス議会やトニー・ブレア前英首相に対して、なぜもっと早く自分のところに来なかったのかと「注意」したのは、彼だったのである。
他方、5プラス1〔国連安保理常任理事国+ドイツ〕は、ソラナEU共通外交代表がイランとIAEAの協力の結果についてラーリージャーニー氏及びエルバラダイIAEA事務局長と行う協議に関する同代表からの報告を心待ちにしている。ある西側の外交官がフィナンシャル・タイムズに述べたところによると、ソラナ氏はウラン濃縮停止問題について柔軟姿勢を見せるつもりはなく、国連安保理決議に従うようラーリージャーニー氏を説得する予定であるという。〔ソラナ氏がラーリージャーニー氏と3日後に行う予定であった〕この協議は、「本質」よりもむしろ「過程」に関わるもので、それゆえラーリージャーニー氏が務めるはずだったイラン側代表にとっては厳しいものになることが予想される。〔ソラナ氏との協議に行く〕「ローマの旅人」をめぐっては、現在不透明な状態となっている。
アフマディーネジャード大統領とラーリージャーニー氏の立場の相違
何故ラーリージャーニー氏は辞任したのであろうか。彼と第9政権との間に、何らかの対立があったのであろうか。彼の後任に、
モジタバー・サマレ=ハーシェミー〔大統領顧問〕に近く、第9政権の内部に属しているサイード・ジャリーリー氏を起用したことに、いかなる意味があるのだろうか。プーチン露大統領が行ったとされる
「提案」をラーリージャーニー氏が明らかにしたことが、何らかの問題を生じさせたのであろうか。
最近イランを訪問したウラディーミル・プーチン露大統領とイラン当局者との会談をめぐって、ここ2週間〔「2日」の誤植と思われる〕矛盾した見解が公表されている。プーチン大統領とハーメネイー最高指導者の会談の後、ラーリージャーニー書記は核問題の交渉チームの代表として、プーチン大統領の「提案」はイランの核をめぐる危機の解決に向けたものであることを明らかにした。
しかしその直後、マフムード・アフマディーネジャード大統領は「ロシア大統領の提案は何だったのか」との質問に対して、プーチン大統領は新たな提案など行っていない、と述べたのである。しかし、このようにラーリージャーニー=アフマディーネジャード間に「見解の相違」が生じたのは、これが初めてのことであっただろうか。
昨年、
ミュンヘンで開かれた安全保障会議に出席したアリー・ラーリージャーニー氏は、アフマディーネジャード大統領の二つの基本的立場である
「ホロコーストの見直し」及び「歴史のページからのイスラエルの抹消」〔※〕について、記者らから質問の嵐に遭った際、「われわれはイスラエルにとって脅威ではない」と述べたことがあった。「ホロコーストの見直し」に関する彼の立場について詮索してくる記者らに対して、彼は歴史家に訊くよう促してさえいるのだ。
〔※訳注:一般にアフマディーネジャード大統領は「イスラエルの地図からの抹消」を主張したとされるが、
ペルシア語原文を直訳するならば同大統領は「エルサレム占領体制は時代のページから抹消されなければならない」と述べた〕
別のケースでは、アフマディーネジャード大統領が1385年の「ファジル(夜明け)10日間」〔2007年2月1日から革命記念日の2月11日までの10日間〕に「
核の吉報を発表する」と約束したことがあった。これに対してラーリージャーニー氏は大統領の発言を確認することができなかった。
アフマディーネジャード大統領とラーリージャーニー氏はイラン核問題の国連安保理への付託について、ほぼ同一の
立場を取っていた。彼らは一致して西側に対し、イランを安保理というお化けで脅かしても無駄だ、安保理は世界の終わりではない、との立場を示していた。しかしラーリージャーニー氏は、イランはウラン濃縮活動の停止には抵抗するとの立場を取りながらも、「合理的な抵抗」という但し書きを付け加えていた。ラーリージャーニー氏はさらに一歩進めて、ウラン濃縮活動の停止について、核問題をめぐる協議の中で提起可能な議題であるとの見方も示していた。
〔後略〕
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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:12221 )