Ismet Berkan コラム:「文化的権利と集権的統一国家」の両立
2007年11月12日付 Radikal 紙

先日このコラムで退役司令官たちが『ミッリエト』紙のフィクレト・ビラに対して語った後に[残された]問題について私はこんな風に問うたのだった。初等教育のうち1年間、そして高等学校で1年間「クルド語とクルド文学」の授業ができて、この授業がクルド語で行われたらどうなるのか?国家が分断されるのか?

あぁぁ、私のEメールボックスがぶっ壊れてしまいました。

歓迎し感謝の意を伝えるメールの数と、私を批判するメール、あるいはあからさまに罵倒するメールの数はほぼ同じだった。

罵倒について私はやり過ごしているのだが、批判については少々立ち止まって[考えて]みたい。大まかに言って、数々の批判は次のような2点に集約される。①トルコの公用語と教育言語はトルコ語である。②あんたはテロリストの要求を[そのまま]口にしているではないか!

明らかにトルコの公用語はトルコ語であるし、明らかに教育言語もトルコ語だ。但し、どうかお答えいただきたいのだが、トルコの学校では英語をはじめとした外国語が教えられてはいないのでしょうか?国家がより良質の外国語教育を行うためだけに設立した学校においては、幾つかの授業は英語あるいは任意の外国語によって行われてはいないのでしょうか?私はここで、母語がクルド語である子供たちのための、この彼らの言語をより上達させられるような、自らの文化についてより一層学べるような選択制の授業を薦めているのであって、カリキュラム全てがクルド語で行われると言っているのではない。更に言えば、カリキュラム全てをクルド語で行う学校[設置]の要求が出てくるとも、私には思われないのだ。

第2の批判、つまり私のコラムではPKKの要求が[そのまま]口にされているとの論点については、そもそも既に回答済みであると思っている。これらの要求は人道的で文化的なものだ、と。PKKが同様の要求をしているからといって問題の本質が変わるものではなく、議論の要は、トルコ共和国国民の一部の文化に敬意を払うか否かという問題であって、[それは]基本的人権のひとつだ。このような事柄が政治的要求へと、ましてそのために血が流されるような問題へと変質してしまったことについて我々は恥じてしかるべきだ、と私は思う。

とはいえ、やはりこの問題について少しばかり立ち止まってみるのが有益だと私は思うのである。EUのコペンハーゲン基準を実現するべく様々な改革の取り組みがなされた際に、問題は、合意をみて、ラジオとテレビのクルド語放送へと行き着いたのだった。

当時この改革を歓迎しない人々は、「個人の権利」と「集団の権利」の峻別を持ち出してきたのだった。私は、正直なところ、母語によるラジオ、テレビ放送に端を発して、個人と集団が一体どのように峻別できるものなのか理解できなかった。但し、おそらく言わんとしていたのは、「我々の[社会]内部にひとつのマイノリティ・グループをこしらえてしまわないように、問題がクルド語だけに特有のものだと決め付けられないように、そのうちにマイノリティの権利の名のもとに集団の権利[の主張]が立ち現れてくることがないように」といったことだった。

そうなってしまえば、当然、問題は集権的統一国家原則の維持[如何]の問題となる。私は、正直なところ、全ての国民が一致して生きようと合意していることが、そして彼らの幸福が重要だと考えている。その意味で言えば、私は集権的統一国家を盲目的に崇拝しているわけではないが、集権的統一国家の原則を維持しようとする方々のことも理解している。ましてや、彼らの正当性を認めることさえやぶさかではない。

やぶさかではないのだけれど、ひとつ条件がある。すなわち、少なくとも国家レベルにおいて本当の意味でのアタテュルクのナショナリズムを適用する、つまり、人種的原理によってではなく、平等な国民[→祖国を分ち合うものたち]の幸福という観点に従って様々な事柄の優先順位をつけるという条件つきでだ。

つまり、トルコが、この意味での平等主義に基づき、かつ国民の幸福を前面に押し出す共和国たる場合には、そもそも集権的統一国家に関する議論がこれほどに加熱することはないはずである。

その一方で、民主市民党のつい先の会議で言明された自治モデルについては、さほど真実味のあるものではないと確信している。但し、その代わりとして、公正発展党が先の任期において提出したものの、当時のアフメト・ネジュデト・セゼル大統領によって拒否権が行使されて忘れ去られている地方行政改革法が、この[自治という]意味においてより洗練されたものになる可能性があり、民主主義が地方に定着することが、社会における緊張を沈静化しうると私は考えている。

広域市当局もしくは県の個別当局が、学校や福祉機関の運営と人員の任免の責任を負いながらも、カリキュラムや適用、福祉基準の各々については中央によって継続的に指示・監督されることが、サービスの質を、すなわち国民の幸福の度を高めるはずだと私は信じている。

これらはどれも、集権的統一国家の原則を少しも傷つけるものではないと私は確信している。

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関連翻訳:Ismet Berkan コラム:退役司令官たちが明かしたこと

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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:12434 )