Melih Arat コラム:トラウマの妙薬
2007年01月13日付 Zaman 紙

幽霊・・・。映画や文学作品でお目にかかっても、幽霊を魅力的だと考える人はごく稀だ。幽霊とは、私の知りうる限りだが、総じて、この世で彷徨う死んだ人間にうりふたつのもの、とされている。

言い換えれば、まだ生きている人間は幽霊ではない、少なくとも私が知りうる限りでだが。では、この幽霊たちは、映画や文学にどうして登場するのだろうか?ほぼすべてのケースにおいて、彼らは、何かをより相応しいように変えたり、(生前)出来なかったことをしようとする。彼らには、生きている時にはけりがつかなかった問題がある。だから、その問題にけりをつけるべく、ある種の二度目のチャンスを手にしてこの世に幽霊として戻ってこようとするのである。彼らは、自分を殺した相手に復讐しようとしたり、あるいは、愛した誰かに最後の別れを告げにやって来る。時に幽霊は(この世で)とても不当な形で亡くなり、ゆえに、その死の不当さを何らかの形で拭い去ろうとする。例えば、一人ぼっちで亡くなり、遺体さえ見つからない犠牲者の幽霊が、自分自身に対してコトの一部始終を説明づけようとする物語はいくつかある。つまり、そもそも幽霊とは、過去に起こった出来事が今現在に反映された結果なのだ。幽霊とは、その多くが、過去に解決されなかった問題を乗り越えようとする、あるいは止むことのなかった苦痛を癒そうとする模索だと諒解されよう。

では、私たち、つまり生きている人間が幽霊になることはあるのだろうか?

ギュルさん(40代・女性)は何にもましてネコが怖い。ネコが自分に近寄ってくるだけでも耐えられない。ユヌスさん(男性)は、特に妻が車を運転する時にはひっきりなしに彼女の運転の仕方を注意する。ストップ、注意しろ、そんな運転じゃ事故を起こすぞ、といったふうに。とりわけ、高速道路にのっている時に妻がハンドルを握っている場合、ユヌスさんの注意はより厳しくなる。すると、妻はとても不機嫌になり、言い争いになってしまう。これらのエピソードで取り上げた人々はどうしてこのようなことをするのだろうか?ギュルさんは、小学生時代のある日、ゴミ箱の前にいるネコの前を通り過ぎようとしたことがあった。その時、彼女にネコが飛び掛ってきた。ネコの爪はすべて、幼いギュルさんの服に食い込んだ。ギュルさんはすぐさまそのことを努めて忘れようとして、忘れてしまった。ただ、今でも恐怖感は残っている。

ユヌスさんは、以前、車で高速道路を走っているときに事故を起こし、その事故がもとで子供ひとりが亡くなったことがあり、事故を起こしてしまうかもしれないという恐怖感が彼の意識の一角を占めるようになった。妻が運転していると、無意識にこの恐怖が甦ってくる。そして、以前の体験が原因となって、何の前触れもなしに妻をきつく注意することになる。

これらの出来事は、ギュルさんとユヌスさんそれぞれにとってのトラウマとなっている。こう言ってよければ、以前のトラウマの幽霊、あるいはその切れ端が、現在の彼らの生き方に影響を及ぼしているのである。トラウマを乗り越えるためには様々な手法が用いられるけれど、その中から、ひとつふたつ紹介したい。克服法のひとつは、トラウマの原因となっている出来事を思い出してみて、その出来事が当たり前のことだと理解することだ。つまり、ゴミ箱の中でエサを漁るネコは、いつでも、傍を通りかかる人に怯えて飛び掛ることがありうる。一方、ユヌスさんは、以前起きた事故で亡くなった子供のことで、おそらく罪の意識にさいなまれている。故に、彼には一種の「罪業の清め」の必要がある。この「清め」のためには、諸々の法律によってではなく、自分が自分に科した代償を支払っていかなくてはならない。この世の幽霊の如き過去に由来する問題から救われるために、それらの問題に正面から向き合うため、あるいは、私たちの精神を清めるためには、代償がなんであれ、支払っていかねばならないのだ。


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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:4344 )