アゴス新聞フラント・ディンク氏の一生、非公式のアルメニア史
2007年01月19日付 Hurriyet 紙

 ジャーナリスト、フラント・ディンク氏の興味深い半生を綴った物語が、2005年10月2日付でヒュッリイェト紙・日曜版のアルバム欄にエメル・アルムットチュ編集で掲載された。

 同氏はトルコにおいてアルメニア人と言えば真っ先に頭に浮かび、同時に「アルメニア問題」と言えば真っ先に取り上げられるうちの一人である。アルメニア人が1915年にトルコの地で遭遇した出来事は虐殺だったのか、そうではなかったのかという質問を初めて投げかけた人物のうちの一人でもある。

 トルコでアルメニア問題に関する集会が開催されるとしよう、すると講演者リストのトップにもやはり彼の名前が挙がる。なぜなら彼は、10年にわたって、ひとつの大衆紙である以上に、トルコに住むアルメニア人にとってアルメニア教会よりも窓口のような存在であり続け、もはや大衆コミュニティの組織のような存在となったアゴス新聞の編集主幹だからである。 しかし彼によれば、自分が行ったことは、新聞発行業務の度を超えることだった。どうして一ジャーナリストがこれほどまでの存在になったのか。それは、彼ほどこの問題に頭をひねり、執筆し、研究し、講演し、経験を積み、要するに心を投じた人物はほとんどいなかったからである。そのフラント・ディンクとは一体何者なのであろうか。
EUの追い風を受けて、さらに外部の関心の的に手を貸して「大騒ぎ」、そのため当然の報いとして卵のように打ち割られ、トマトのように切り刻まれた非ムスリムのトルコ国民なのか?
それとも、過去何年も前ずっとそうして来たように、二つの社会が「ルールに則った形式で」共存するために尽力する誠実な民主主義者なのか?答えを出す前に、そしてこの文章を読む前に、9月27日にヒュッリイェト紙に掲載されたベキル・ジョシュクン氏の祖母に関する記事をみなさんに読んでいただきたい。なぜならこれは、形式が硬化した歴史の観点から返答できる質問ではない。フラント・ディンク氏の伝記も同じである。人間や人間の感情が入り組んだ物語のように、より簡潔で、より意味深く、議論からは程遠く、「向こう側」という言葉が完全に無意味となる物語…。


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エメル・アルムトチュ記

ディンク氏は、1954年9月15日にマラトゥヤの、アルメニア人も暮らすアレヴィー派居住区のチャヴシュオール地区で生まれた。仕立て屋のハーシムの名で知られる父セルキス・ディンクは、マラトゥヤのギュリュンリュ郡出身だった。その父から2年ごとにさらに二人の息子が生まれるが、ディンクの生涯の物語の基調はそもそもスィヴァスのカンガル郡出身の母の名に隠されている。母の名はギュルヴァルト。ギュルは、ご存知の通りトルコ語で、バラの意。ヴァルトはアルメニア語でトルコ語のギュルと同意である。ディンクが生まれる遥か以前に彼の母に付けられた名前が、「共生」がいかなる意味かということを物語っている。

ディンクの父はばくちに興じる人物だった。このため、ディンクが7歳のとき、幼少の兄弟とともにイスタンブルに逃げるようにして移り住んだ。ただ移住後数ヶ月、コーヒーハウスでばくちに興じる父を母は捕まえては喧嘩を繰り返した。離別はその後訪れた。3人の兄弟は、「居場所がない」というのがいかなる意味か、忘れ得ない次の光景より学んだ。母方のおじの家の前で母、祖母、おじ方の嫁が窓から「父さんの方へ行け」と声を上げる一方で、父は道ばたで「母さんの方だ」と指差していた。暫くどうしてよいかわからなかった3兄弟は、突如同時に、逆方向に走り始めた。ただ3日後クムカプにある漁師のかごの中で、ひもじくみすぼらしく眠っているところを発見された。その後の行き先はゲディキ・パシャにあるアルメニアの孤児院だった。

10年間、孤児院で過ごした。100人ほどの孤児たちとともに、幼少より自分のことは自分で行い、絶えず肉体を労したこの孤児院時代が、自身の性格を形作ったとディンクは考え、愛情をもって追憶する。しかしすべてがそれほど麗しいものでないことは確かだ。結局、暮らしたのは孤児院なんだ、と。あらゆる孤児院にまつわるお話と同様、彼の孤児院でも昼間は自己主張して競い、夜は枕を涙で濡らすこともあった。涙を流すとき、父に憤り、母を祝福した。悪さをしたときもアルメニア語を話さなかった時も絶えず打たれた。

■ 孤児院時代の愛情を成就

ある日、ラケルが孤児院に連れられてきた。1915年の混乱(殺戮)を逃れて、長年ジュディー山にテントを張って過ごし、新たに山を下ってきた家族の子で、(言語的に)クルド化したアルメニアの女の子だった。トルコ語もアルメニア語もわからなかった。ディンクは彼女の「お兄ちゃん」になり、トルコ語、アルメニア語を教え、ひと時も側を離れなかった。(お互い)イスタンブルのアルメニアの子供施設に過ごし、(ディンクの)日銭を稼ぐため働いていた高校時代、一時互いの消息がわからなくなったが、再び出くわしたとき、ラケルは成長し、14歳になっていた。20歳のフラントは二度と側から離れなかった。一年後、ふたりは結婚した。

ディンクは、その当時、非常に左翼思想にかぶれ、さらに「最も農村的な」組織(共産党)に共感を抱いたが、武装や過激行動を好まず、ラケルとの恋愛もあって、武装闘争に執心する左翼から遠ざかった。しかし(1980年)9月12日のクーデターののち、拘束され拷問を受けることを免れなかった。拘束されたのは、彼自身が組織に加わってデモを起こしたためでなく、次男のホスロプの「悪さ」のためだった。

ディンクの兄弟たちは彼のように学ぶことに熱心ではなかった。ディンクが高校を終え、イスタンブル大学理学部で動物学を学んでいる際、孤児院をいち早く去った兄弟たちは見習い仕事をして働き始めていた。しかしホスロプには国外に赴く夢があった。クーデター当時、出国が困難であったのでベイルートに赴き、そこからヨーロッパに行き来し始めた。ベイルートで死亡した人物の身分証を使って。彼の行動は冒険であって、政治との関わりはなかった。しかしその身分証を帯びてある日捕まり、身元を隠そうとフラントの友人と名乗ると、事態は混乱した。残念なことに、アルメニアの過激派組織アルメニア解放秘密軍がヨーロッパでトルコ外交官に対して恐るべき行動をとっているこの時期に、ベイルートやアルメニア教会という言葉が結びつくと、ことの真実を知ることはとても困難となった。ふたりとも警察の手から生きてやっと救われた。

最初の事件後、兄弟を説き伏せて兵隊に送ったディンクは、(最初の事件で) ホスロプを見つけるため、警察の二回目の尋問で本当のことを明かした。「あいつは友人じゃなくて、兄弟だと、そういうと(ホスロプを)護らざるを得なくなった」と語った。しかし一旦ブラックリスト入りしてしまった。その後、生起したすべての事件は、すべての道はローマに通ずといったかのように、ディンクに行き着いた。

例えば、運営していた子供園で育った若者がヨーロッパに行くやいなやアルメニア解放秘密軍の活動に加わるというようなことが、のちに間違いと判明しても、ディンクを取り調べる理由となった。あるいは彼が育った孤児院の厳しい院長が、クーデター後に、トルコ性に反した活動に携わったとの理由で監視下に置かれた際、まさにその時期にフランス領事館を襲撃したアルメニア解放秘密軍の戦闘員が(提示した)条件の中で院長の解放を要求した際、警察に呼ばれたのはまたしてもディンクであった。その時のことを次のように語った。「危険をとても好んでいるが、危険も私のことをお好みのようだ。でも全くの無実だった。」

元々動物学を大学で修めたのち、生物界や学問をとても好んでいたため「生命倫理」で学究生活を積もうと望んでいた。その時期にこの学科が開設されず、再び受験して哲学科に入り直した。それをも最終学年で、ある教官の方針と彼の頑固さゆえに放棄した。二人の兄弟とともに出版社と文房具屋を続ける中、妻のラケルとともに、夫婦同様にアナトリア出身の寄辺なく、貧しい子供たちを育むトゥズラのアルメニア子供園を運営し始めた。一から作り上げられたこの園が(21年後に)国家によって接収されることになると、ディンクは「ちょっと待った」と言った。

■ マイノリティーであることを感じた時

あの時まで、まったくマイノリティーとは感じていなかった。何百人もの子供を庇護する(トゥズラの)学校が彼の手から一瞬にして奪われ、異なる扱いを受けたと心に決めるまで。生涯のもう一つの転換点は兵役時期であり、(その時の扱いは)秘かなものだった。:デニズリで歩兵部隊の中で8ヶ月間兵役を務めた際、同輩が皆チャヴシュ(伍長)になる中、彼は試験で満点をとっても、チャヴシュになれないと深く悲しんだ。チャヴシュになるのはそれほど重要じゃなかったが、別扱いを受けたと感じたから。このことで、ことさら二時間ほども嘆こうとは全く考えてもみなかった。もはや自分自身の存在をもっと強く意識しなければ、と考えた。

別扱いはトルコのアルメニア人にとって長い歴史だ:1915年や(第二次大戦期に)富裕税を課された時期、キプロス問題の発生で生じた緊迫(時期)はまさにそうだ。その後、アルメニア解放秘密軍の活動が深刻化し、ディンクの表現を使えば、トルコにいるアルメニア人が翻弄され始める時期が来た。のちにクルド問題がアルメニア問題とともに語られ始めた。閣僚の口から「オジャランはアルメニアの落とし子」と揶揄される暗い時期だ。これで終わらない。さらにアルメニア共和国のカラバフでの戦闘がトルコに影響を及ぼす。再び彼の表現を用いれば、アルメニア人が毎日自宅でひっそりと過ごす日々…。こうした精神状態から抜け出さねばならない。

アルメニア信徒の数紙で書評を書いて執筆を開始した。その後メディアで誤報を訂正する際、彼の名前が現れた。総主教に「アルメニア社会はとても閉鎖的だ、自分たちを十分に説明すれば、偏見はなくなる」と発言したのも彼だった。このためディンクは、トルコ語の新聞発行を提案し、1800部で開始した発行部数は今では6000部に達し、アルメニア人同様トルコ人読者ももち、アルメニア社会とコミュニケーションをとろうとするあらゆる政治家、文化人が求めるアゴス紙の編集主幹の任を負った。

結果に満足していた。彼によれば、アゴス紙は単にアルメニア問題に関心を寄せる新聞にとどまらず、トルコの民主化の一部となった。彼が望んだのはこのことだった。「アルメニア問題は解決されて、クルド、アレヴィー、女性、ホモセクシャルの問題は解決されなかった、これで何の役に立とうか。」

しかしディンクは、新聞が問題解決を行うのではなく、アルメニア信徒の社会が市民(社会の)中心となる必要性を説いた。「世俗国家であるトルコでモスクの管財委員会が傍らにある学校の運営を考えようか。こうしたことに世界のいかなる世俗国家が耐え得ようか。しかしトルコでは教会が学校を運営しているのだ」と。

■ 歴史を語る一方で、未来をつくる

彼の既述の発言から、彼のことを好まない公式見解をもつのはトルコのみならず、アルメニア信徒の指導者も同様だった。ある日そうしたひとりから次のようなメールを受け取った。:「なんだ、これは。すべて破れたパンツから出すように(不適切なものを)お前は出してきて」。次のように返答した。「こうした方法をとるのは望んでいませんでしたが、とても残念ですが、あなたはご自分のパンツをお破りになれないものですから。」

ディンクによれば、「痛みを伴う歴史を」語る際、タブーを破ろうとつとめる際、方法を生み出さねばならない。最近物議を醸した会議(会議名は下記)で明らかになったのもこうした必要性であった。「なぜその会議では反対意見がなかったのか、とひとびとは問うた。妥当な問いのように思えるが、そうではない。トルコでは白黒付けたがる考え方が、互いに話し合う方法を作り出すことができなかった。まず議論の方法を生み出し、それから質問を行うべきだ。」

彼の見る限り、こうした議論では前列を二項対立的見解の持ち主が占め、中庸の者は後列にとどまる。この会議では初めて逆になった。今後ろにいる二項対立論者に勧めることは、中庸の者に学び、議論の方法を生み出すことだ。その結果、語られるべきは歴史であり、話題となる歴史は我々の未来を閉ざすものであってはならない。歴史を語る際に、一方では我々の未来をつくること、快い響きだ。


会議名:İmparatorluğun Çöküş Döneminde Osmanlı Ermenileri: Bilimsel Sorumluluk ve Demokrasi Sorunları (オスマン帝国の崩壊期のアルメニア人:学術上の責任ある検討と民主主義上の問題)


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( 翻訳者:永井ひとみ (アルムトチュ氏記述部分は清水保尚) )
( 記事ID:4393 )